一、説教壇の設置時期の特定カルレットの研究の批判的検証から、中央身廊の内陣障壁と、左右の身廊の内陣障壁が同時に設置されたか否かを検証する必要がある。内陣障壁を構成する石材の文様の分析と、説教壇とフレスコ画の位置関係の観察からこの問題に取り組みたい。内陣障壁は、左身廊、中央身廊、右身廊にまたがって展開している。左右の身廊の内陣障壁と中央身廊の内陣障壁は、それぞれ第3ピラスターと第4ピラスターの間に内陣障壁を設置することで接続されている。カルレットが指摘した通り、左身廊の内陣障壁の右部〔図5〕は北の第4ピラスターに接続され、そこに描かれた預言者ヨエルの姿は部分的に損なわれている。同様に、右身廊の内陣障壁の左部は南の第4ピラスターに接続され、そこに描かれている逸名聖人の姿は損傷している。つまり、左右の身廊の内陣障壁は壁画の制作後に設置されたものであり、左右身廊側のピラスターに描かれたイメージをさほど重視していなかったことがわかる。論者は内陣障壁を構成する全ての石材の文様の調査を行い、中央身廊の内陣障壁と左右の身廊の内陣障壁が同時に設置されたとする結論に達した。この結論のためには、左身廊の内陣障壁の右部〔図5〕と、左身廊の内陣障壁と中央身廊の内陣障壁をつなぐために設置された北の第3ピラスターと第4ピラスターの間の内陣障壁の左部〔図6〕の文様分析が重要な鍵となる。前者は縦に棕櫚の文様を、横に棕櫚と十字架を絡めた文様を並べ、後者は直線と正弦曲線を描き、いずれも文様は枠で縁取られている。前者の装飾文様の右端、つまり預言者ヨエルの描かれたピラスターに接触する部分の縁は不自然に広い。石材そのものに石を追加した形跡は見られないため、この不自然な処理は、左身廊の幅を念頭にこの石材を内陣障壁として制作した際に施されたものと考えない限り説明がつかない。カルレットもこの文様の起源はビザンティンにあるとし、11世紀かそれ以降に彫刻されたものである可能性が高いと考えている(注10)。後者の正弦曲線文様はきわめて珍しい文様であり(注11)、年代を推定するのが難しい。論者はこの正弦曲線が等間隔ではないことに注目する。この石材の右隣りの石材には、円とひし形を互い違いに組み合わせた文様が施されているが、これはイタリア全土で9世紀に普及したものである(注12)。円とひし形の文様は途中で不自然に切断され、左端の縁も失っているが〔図7〕、正弦曲線文様には切断痕はなく、文様を囲む縁も残されている。円とひし形文様の石材と正弦曲線文様の石材はそれぞれ同じ横幅で並べられ、第3ピラスターと第4ピラスターの間に位置し、左身廊の内陣障壁と中央身廊の内陣障壁をつなぐ役割をしている。この事実から導き出せるのは、正弦曲線文様は、設置の際に彫刻されたということである。長さの制約があった― 28 ―― 28 ―
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