㊱ 田村宗立関連資料の調査と作品研究研 究 者:京都国立近代美術館 研究員 平 井 啓 修はじめに田村宗立は、弘化3年(1846)丹波国船井郡河内村(現在の南丹市)に生まれ、3歳の頃から絵を描き始め、10歳で大雅堂清亮に南画を学んだ。翌年、画僧として有名であった六角堂能満院の大願に弟子入りし、仏画を学んでいたところ、世間には「眞物に見へる畵」があることを知って、実物写生に励んだ。実物をじっくりと観察するうちに、物には陰影があることに気づいて描き加えるようになり、それによって少しは本物のように見える絵に近づいた。17歳ぐらいの頃に初めて写真を見て興味を持ち、友人と資金を貯めて安い写真機を購入している。24か25歳になった頃に油彩画のことを初めて知り、西洋の画法なので外国人と話す必要があると考え、京都府中学校に入学して英語を学んだ。その後は、粟田病院に勤務していたドイツ人のヤンカー・フォン・ランケックについて解剖学や人体のことを学ぶとともに、油彩画法のことも教えてもらい、横浜のチャールズ・ワーグマンにも油彩画の手ほどきを受けに行ったと言われている。当時は画材も十分ではなかったので、油絵具も独自で作りながらの制作であったようである。京都の洋画壇は、浅井忠が京都高等工芸学校の教授として京都へ赴任してきた頃から活発な様相を呈していくが、宗立はそれ以前から京都において油彩画を描いており、明治13年(1880)に開校した京都府画学校の西宗(洋画科)の教員も明治14年(1881)から務めている。京都府画学校時代のことについては、任命書に基づいてまとめたものがあるので、ここで詳述することは控える(注1)。本報告では、継続して進めている京都国立近代美術館所蔵の田村宗立関連資料(以下、宗立関連資料)の整理や調査についての現状の成果報告を交えながら、これまでの宗立研究に肉付けを行うものである。併せて、新たに発見した大英博物館所蔵の宗立作品と京都国立近代美術館が収蔵した《涅槃図》についても報告を行う。1.宗立作品の画題宗立関連資料の賞状に記された作品名を見ていくと、明治14年(1881)の第10回京都府博覧会では「油畵 三都美人図」〔図1〕、明治15年(1882)の第11回京都府博覧会では「油繪月中漁火圖」〔図2〕、明治18年(1885)の第14回京都府博覧館では「保津川屏風岩圖」〔図3〕でそれぞれ褒状を受けている。これらの作品名を見ていると、― 389 ―― 389 ―
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