円山応挙の作品が思い浮かぶ。「三都美人図」、「月中漁火図」、「保津川屏風岩図」から想起される応挙作品としては、《三美人図》(徳願寺)、《鵜飼図》、《保津川図屏風》(株式会社 千總)を挙げることができる。《三美人図》は、応挙の愛妓、愛娼と、応挙と親交があった儒学者の皆川淇園の愛妓を描いた作品で、《鵜飼図》は、暗闇の中、松明で水面を照らして漁をする鵜匠の様子が描かれる。《保津川図屏風》は応挙の絶筆と言われる作品で、うねる水の流れを見事に描いた傑作であり、竹内栖鳳が模写した作品が現存しており、当時の京都画壇において代表的な作品として扱われていたと思われる。また、宗立作品には、応挙の《波上白骨坐禅像》(大乗寺)とほぼ同図様の《骸楼》(豊中不動寺)が遺されており、多少なりとも応挙を意識していたのではないかと感じさせる部分がある。当時、京都の日本画は円山・四条派の流れを汲んだものが多かったので、応挙ということではなく、当時の日本画の流れを受けたものでもあるだろう。ただし、宗立に学んだ伊藤快彦が『中央美術』に寄せた「田村宗立翁の回想」において、「繪畫は實在の描寫を忘れてはならぬと感じるやうになると、應擧の寫生などに引きつけられて、だんだん寫實の域に進んで行つて」(注2)と記しており、宗立が一時期応挙の写生画に興味を示していたことは確実である。応挙は実物写生を重んじ、立体感のある描写を試みたことで知られる。障壁画では部屋の構造上、障壁画同士が直角に対面することを活かして、空間全体を使って作品世界を成立させるなど、観る者に実物を感じさせる表現を目指した。《雪松図屏風》(三井記念美術館)は応挙作品唯一の国宝であるが、塗り残しの余白で積雪の様子を表し、墨の濃淡で樹皮の様子や枝振りの遠近感を描写した上で、蛇腹になる屏風の特性までも計算に入れて制作しており、観る者を実際の雪景色へと誘ってくれる。現存する宗立の油彩風景画において、雪景図が多く確認できることはこうした点で目を引く。京都で活動した宗立にとって、応挙は「眞物に見へる畵」を目指した先輩であり、意識せざる得ない存在であった。ところで、今回の調査中に、宗立が描いた絹本着色の蒙古襲来を描いた大作に出会うことができた。海は荒れ狂い、木々はしなり、まさに神風が吹き始めたかのような劇的な作品である。署名は「S. TAMURA」で、この署名は油彩画に多く見られる。本作は別に紹介をされる機会があるようなので、詳細については控えることとする。これまでの宗立研究の中ではあまり触れられることがなかったが、宗立は川島織物が制作した綴織の原画を手がけている。日光東照宮の祭礼を描いたもので、制作のために現地へ赴き、写生をしたことが知られている(注3)。この原画を基にした綴織壁掛は、明治26年(1893)のシカゴ・コロンブス万国博覧会に出品され、現在はシカ― 390 ―― 390 ―
元のページ ../index.html#402