鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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品作であろう。明治39年(1906)の第5回関西美術会展にも涅槃図が出品されているが、京都国立近代美術館が収蔵するまで田村家が《涅槃図》を管理していたことから、他に涅槃図があったわけではなく、本作が出品作と見てまず間違いない。なお、《画帖》には「大願和上」と記された人物のスケッチが残されており、大願は元治元年に亡くなっているので、本画帖を使用していた年代を㴑ることができるかもしれないし、今は亡き師匠の姿を偲んで描いたものかもしれない。《涅槃図》には共箱がついており、箱書きはブロック体で「NAHAN DZOW」、筆記体で「Nomamnin Soriu」〔図9〕、行書体で「法金剛宗立十方明拜画」と書かれている(注16)。作品には署名はなく、「十方明之印」(白文方印)、「閣浄菩提樹風春檐蓄半」(白文方印)が捺される。《涅槃図》に図様が類似したものに、月僊《仏涅槃図》(名古屋市博物館)がある。月僊は、名古屋生まれの浄土宗の僧で、絵も描いた人物である。円山応挙の弟子の中でも優れた10人のことを応門十哲と言うが、月僊もその一人に数えられている。涅槃図は涅槃会には必須のものなので数も多く、ある程度類型化されているため、月僊の《仏涅槃図》についても、正法寺本(滋賀県高島市)や康永4年(1345)作の根津美術館本と近似していることが横尾拓真氏によって指摘されている(注17)。宗立の《涅槃図》も沙羅双樹や人物の配置、および人物の身振りがほぼ同じであり、同系列に分類できる。月僊が応挙と関連する人物であることは興味深い。おわりに宗立が京都洋画壇の先駆者であることは最初に述べたとおりである。それは当時の宗立に関する資料や関係者の言葉からも明白である。例えば、京都日出新聞の記者で美術を中心とした評論家であった黒田譲(天外)が、画家や工芸作家、詩人などの芸術家や文化人を直接取材して著した『名家歴訪録』の田村宗立の項に、「當地に於る油繪については、貴君が一番お古いそうですが、どうかその御經曆等を承まはり度厶います」(注18)として取材を始めている。また、伊藤快彦は宗立を「京都に於ける洋畫の先達であるばかりでなく、日本の油繪畫家として先覺者の名譽を擔ふべき人である」(注19)と述べている。以上のように、宗立が京都で油彩画を描いた先達であることは、資料から明らかとなるが、その重要性に比して洋画家・田村宗立の研究が進まないのはなぜであろうか。もちろん、そういった研究がないわけではない。京都文化博物館において開催された「京都洋画のあけぼの」展(1999年)では宗立を大きく取り上げているし、松尾― 394 ―― 394 ―

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