鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
41/643

からこそ、文様は等間隔ではなく、また途中で不自然に途切れていないのである。一方で、円とひし形文様の石材は、内陣障壁として再利用するために切断されたのである。内陣障壁全体のうち上記2か所の石材が、9世紀に彫刻されたものの再利用ではなく、内陣障壁の設置に伴って制作されたものであることを示した。特に正弦曲線文様を持つ石材が後世の作であったことは重要な意味を持っている。なぜならば、第3ピラスターと第4ピラスターの間の内陣障壁は、中央身廊の内陣障壁がなければ制作する必要がないからである。左右の身廊の内陣障壁を設置した段階で、中央身廊の内陣障壁の存在が想定されていたことがこれによって証明されたこととなる。中央身廊の内陣障壁が、フレスコ画制作よりも先に設置されていた可能性はあるのだろうか。それは、説教壇とフレスコ画の位置関係からあり得ないことだと判断できる。まずは説教壇の階段を見てみよう〔図8〕。この階段は、北の第3ピラスターに接している。このピラスターには周囲を緑と赤の枠で囲まれた福音書記者マタイが描かれている。演壇状説教壇の演壇の高さとマタイを囲む緑と赤の枠の下部の高さが一致しているが、これは説教壇の設置によってフレスコ画が見えなくならないようにとの配慮がされた結果と考えられる。北側のピラスターの上部には聖母晩年伝が展開しているが、体積のある説教壇が設置された後ではこの位置にフレスコ画を描くことは非常に困難である。したがって、中央身廊の内陣障壁とそれに付随する説教壇の設置は、中央身廊のフレスコ画制作の後であったと見なすのが妥当である。したがって、左右の身廊と中央身廊の内陣障壁は、9世紀に彫刻された石材と、13世紀に制作された石材とを用いながら、1240年代に中央身廊のフレスコ画が描かれた後に設置され(注13)、中央身廊の内陣障壁と接続する説教壇も同時期に設置されたと結論付けることができる。二、説教壇の機能本説教壇は中央身廊両壁のフレスコ画を損なわないよう細心の注意を払って設置されている。説教壇の機能と関係する聖堂の使徒書簡側と福音書側の意味は、そこに描かれたフレスコ画の内容をひも解くことで解き明かせるものと思われる。福音書側である北壁には、内陣方向に向かって順に《聖母のお眠り》、《聖母の葬送》、《聖母の埋葬》そして《聖母被昇天》から構成される聖母晩年伝と、聖ステパノと聖ラウレンティウスの殉教場面が描かれている。使徒書簡側である南壁の壁画は欠損が激しいものの、北壁の聖母晩年伝と対置する箇所に、聖堂の入口方向に向かって順に《冥府降― 29 ―― 29 ―

元のページ  ../index.html#41

このブックを見る