鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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下》、《空の墓を詣でる聖女たち》、《トマスの不信》そして《ペンテコステ》が描かれていたと考えられる〔図9〕(注14)。この聖母晩年伝は、イタリアにおいて9世紀の作例以降初めて描かれたものである(注15)。聖母は魂のみが被昇天したという考えに基づき、ビザンティン文化圏内では聖母のお眠りの瞬間のみが表されてきたが(注16)、聖母の体ごとの被昇天を支持したクレルヴォーの聖ベルナルドゥスの活躍の後、フランスを中心に聖母の死と天上での栄光化にまつわる諸場面が造形されるようになった(注17)。この点を念頭に本聖堂の聖母晩年伝を観察するならば、聖母の晩年の物語を詳述する点でフランスからの影響を受けているものの、《聖母被昇天》〔図10〕の場面で、聖母の体ごとの被昇天の瞬間を敢えて表していない点でビザンティン文化圏の考えに影響されていると言える。フランスでは、天使に支えられて天にあげられる聖母の姿を明示する「聖母被昇天」図像が一般的であるのに対し、本聖堂の《聖母被昇天》では、空の墓だけが描かれ、聖母の体が地上から消えて天上にあげられたことが暗示されているのである。南壁の物語も、キリストの復活の瞬間は選択されず、その代わりキリストの復活にまつわる諸主題が並んでいる。このように、キリストの復活の瞬間を示さないキリスト復活譚の描写は、ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂の内輪モザイクにも見られる通り(注18)、ビザンティン文化圏内で慣例であった表現である。ムッジャ・ヴェッキアはビザンティン文化圏に属するバルカン半島に隣接すると同時に、ドイツとフランス文化が流入したアクイレイアそしてウーディネに近接する土地であった(注19)。聖母の体ごとの被昇天を暗示するだけの《聖母被昇天》を含む本聖堂の聖母晩年伝は、聖母の魂の被昇天を信じるビザンティン文化圏の表象伝統と、聖母の体ごとの被昇天を信じるフランス圏の表象伝統の双方を参照した結果であると言えよう。そしてそれは、体のよみがえりの瞬間を示さないという点で、南壁のキリスト復活譚と態度を同じくしており、本聖堂の聖母晩年伝とキリスト復活譚は対になって意味をなしていたことが窺われる。中世の聖堂壁画は、壁画の配置場所や主題の組み合わせにより、装飾プログラムを構成することが常である。したがって9世紀以降、イタリアでは描かれなかった聖母晩年伝を本聖堂に描くにあたって問題となったのは、その配置場所であったと推察される。なぜ、本聖堂の北壁(福音書側)に聖母晩年伝が、南壁(使徒書簡側)にキリスト復活譚が対となるように配置されたのだろうか。その答えを導くために、西欧圏よりも早い時期から「聖母のお眠り」を聖堂空間に描いてきたビザンティンの聖堂装飾の決まり事に着目したい。アンリ・マグワイアの― 30 ―― 30 ―

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