鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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㊳ 江戸狩野派における「彦根屏風」受容─駿河台狩野家・楽央斎休真洞信の模本「彦根屏風」を中心に─研 究 者:東京国立博物館 アソシエイトフェロー  曽 田 めぐみはじめに近世初期風俗画の泰斗として名高い「彦根屏風」(彦根城博物館蔵)は、鍛冶橋狩野家第七代 狩野探信守道(1785~1835)をはじめとして、狩野派を中心に多くの模本や翻案作品が生み出された(注1)。本研究ではとりわけ、楽央斎休真洞信なる狩野派絵師が手掛けた「彦根屏風」模本(河鍋暁斎記念美術館蔵)に着目したい。当該模本には模写年代のみならず制作場所まで記録されており、江戸狩野派における「彦根屏風」受容の様相を明らかにする上で大変重要な作品である。本稿では楽央斎の画業を辿りながら、「彦根屏風」をはじめとする風俗画が江戸狩野家において描き継がれ、それら模本が後世の絵師たちにどのような影響を与えたのかという点について考察を進めたい。一、楽央斎休真洞信の経歴と画業近年、「幕末狩野派展」(静岡県立美術館、2018年)や「河鍋暁斎 その手に描けぬものなし」(サントリー美術館、2019年)など、狩野派絵師としての河鍋暁斎(1831~89)に着目した展覧会が続いている。暁斎は表絵師駿河台狩野家に入門し修業を積んだが、とりわけ慕っていた絵師こそが楽央斎休真洞信であった。①来歴楽央斎の伝記については詳らかでないが、「暁斎蒐集画巻」(河鍋暁斎記念美術館蔵)におさめられた楽央斎筆「芙蓉に蝶」(落款「休眞洞信筆」)には、「先師洞和愛同門」と暁斎による書き込みが確認できる。「先師洞和愛」とは、駿河台狩野家出身で土佐藩御用絵師を務めた前村洞和愛徳のことであろう。天保11年(1840)に暁斎は前村洞和の弟子となったのち、洞和が病に伏せたため駿河台狩野家第七代 狩野洞白陳信へ再入門したという経緯がある。そのため「先師」と記しているものと了解されるが、「同門」とあることから楽央斎もまた前村洞和の門人であり、暁斎の兄弟子だということが浮かび上がってくる。楽央斎と暁斎の交流がいつからはじまったのかという点については不明なところも多い。紋様を中心に暁斎がありとあらゆる図様を描き留めた「紋画帖」(河鍋暁斎記― 413 ―― 413 ―

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