鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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念美術館蔵)には、「狩野楽英ヨリ紋狂斎ヘヲクル」、「慶應四戊辰春二月廿九日 惺々狂齋改之」の墨書とともに蜀江紋が描かれている。暁斎は楽央斎が手掛けた模本に自ら「狩野楽英翁画」(注2)と書き込む例が認められるため、「紋画帖」に見られる「狩野楽英」とはすなわち楽央斎のことと想定できる。楽央斎が暁斎に「紋」を贈った時期は明確でないが、兄弟弟子の関係にある両者の間には面識があり且つ交流があったことを裏付ける資料といえるだろう。なお、楽央斎による模本「絵を描く唐美人」(狩野探幽原画、河鍋暁斎記念美術館蔵)の墨書には、「嘉永癸丑歳初秋上浣江所於福街六十一翁楽翁冩之蔵」とある。嘉永6年(癸丑、1853)に数え年61歳であったことから、楽央斎の生年は寛政5年(1793)と判明する。没年については今後の研究の進展が待たれる。②現存作例楽央斎作品の中でも本画を所蔵している公的機関は決して多くはないが、後述するように東京国立博物館が「遊女図」を、ヴィクトリア・アルバート博物館が「鵯越の図」(注3)を所蔵している。楽央斎は本画よりもむしろ、写生図や古画の模本を多く手掛けた絵師という印象が強い。河鍋暁斎記念美術館が所蔵する二十点余の楽央斎による模本をはじめ、例えば、江戸東京博物館には鴨や海老、鯉などを精緻に描いた「鳥魚菜写生図巻」(資料番号:90203501)が所蔵され、東京藝術大学大学美術館には「草花図巻」(東洋画真蹟:1055~58)と題された写生図巻のみならず、「探幽 浄玻璃閻魔王奪衣婆」(東洋画模本:429)や「雪舟 観音図」(東洋画模本:2784)などの模本が伝わっている。楽央斎は自らを「浪人」と称しているが(注4)、自由ながらも絵師としては恵まれない立場であったため、本画を手掛ける機会が少なかったのかもしれない。六十歳を過ぎてなお古画を丹念に模写し続けた足跡からは、生涯に亘って絵を愛し続けた老翁の姿が偲ばれる。③楽央斎の模本に見る狩野派の風俗画 ─狩野常信原画「弾琴五美女憩の図」を例に河鍋暁斎記念美術館所蔵の楽央斎による模本の多くは、慶応4年(1868)の春に暁斎が「新門前角古道具屋」で購入したものである。風俗画の模本を中心とし、狩野派のみならず土佐派、宮川派など諸派の作品を原画とする。本項では中でも、「弾琴五美女憩の図」(狩野常信原画、河鍋暁斎記念美術館蔵〔図1〕)に注目したい。安村敏信氏は「狩野派の浮世絵」(『肉筆浮世絵大観 五 太田記念美術館/北斎館― 414 ―― 414 ―

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