鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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/板橋区立美術館』講談社、1996年)において、狩野常信(1636~1713)が肉筆浮世絵を手掛けた傍証としてこの楽央斎模本を取り上げた。当該模本には常信筆であることを示す款記「つねのふ書」の写しも認められ、楽央斎が文化11年(1814)に模写を行った当時、原画は『新吉原細見記』を刊行したことでも有名な遊女屋 玉屋山三郎の所蔵であったと画中に明記されている。常信自身が描いた「弾琴五美女憩の図」の現存は確認されていないものの、本作の模本は様々な人物によって描き継がれた。例えば、橋本雅邦の父であり木挽町狩野家の絵師 橋本晴園養邦が天保2年(1831)に手掛けた模本が東京国立博物館に伝わっており(列品番号:A-4372)、暁斎もまた同図をもとにした本画(河鍋暁斎記念美術館蔵)を描いている。さらに、明治24年(1891)には浮世絵師の楊斎延一(1872~1944)が「弾琴五美女憩の図」を写して「元禄風俗遊女集楽之図」(個人蔵〔図2〕)と題した錦絵を刊行した。延一が「弾琴五美女憩の図」の原画を直接目にする機会があったか定かではないが、錦絵の画中には「横山主人之好ミニまかせて 狩野右近常信筆 楊斎延一冩之」とある。「横山主人」とは本作の板元である横山良八のことだが、明治中頃には狩野家が手掛けた肉筆風俗画の図様が広く伝わっていたことを示す好例といえよう。二、江戸時代における「彦根屏風」の受容狩野常信が「弾琴五美女憩の図」を描いたとされるように、江戸狩野派において風俗画は一つの重要な画題であった。既に安村氏が先行研究で述べられているように、浅草猿屋町代地狩野家の第五代 狩野章信(1765~1826)や狩野探信守道をはじめとする江戸時代後期の狩野派絵師らは、風俗画や浮世絵にならった美人画を手掛けている。その中にあって、「彦根屏風」(彦根城博物館蔵〔図3〕)は彼らが拠り所とすべき主要作品で、多くの模本および翻案作品が現存する。そして、楽央斎もまた「彦根屏風」に魅了された狩野派絵師の一人であった。①楽央斎の「彦根屏風」模本河鍋暁斎記念美術館には楽央斎による「彦根屏風」の模本が伝来している〔図4〕。人物のみを抜描きし、原画の「彦根屏風」とほぼ同一の大きさで模写を行っている。「彦根屏風」第四扇の脇息にもたれる女性と文を広げる男性を楽央斎模本から見出すことはできないが、「六枚折屏風遊女又平毫楽央主」と模本に記されているため、楽央斎は原画と同じく六扇分の画面を模写したということになる。第四扇の文書く女性― 415 ―― 415 ―

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