は模写されていることを考えると、楽央斎は脇息にもたれる女性と文を広げる男性も写していたが、ある段階で当該部分の模本のみが失われてしまったと考えるのが自然であろう。楽央斎による人物の模写は丹念で、耳珠をアラビア数字の「3」に似たかたちで表わす「彦根屏風」の特徴も正確に踏襲している。着物の柄は一部省略している点も見られるが、帯の細かな紋様まで忠実に原画を再現し、淡彩に加えて「地エンジ鹿子胡粉」や「地浅黄不残鹿子胡粉」と書き込まれていることから、楽央斎は実際の「彦根屏風」を目の前にしながら模写を行った可能性が高い。なお、楽央斎模本には以下の墨書が確認される。文政十二己丑歳初秋下浣下谷於新居写之又平毫遊女屏風抜写楽央斎主この墨書から楽央斎は文政12年(1829)に下谷(現・東京都台東区)で模写を行ったこと、当時「彦根屏風」は「遊女屏風」と呼ばれ筆者は岩佐又兵衛と考えられていたことが窺える。では、江戸時代における「彦根屏風」の所在地は下谷だったのだろうか。②「彦根屏風」の所在地彦根藩主の井伊家に伝来したことから「彦根屏風」の名で現在親しまれているが、古くから井伊家の所蔵品であったわけではない。近年、本作は井伊直亮(1794~1850)のコレクションであったことが明らかにされている(注5)。では、直亮はいつ「彦根屏風」を購入したのであろうか。直亮の道具帳「屏風之覚」(彦根城博物館蔵)には、「彦根屏風」を意味する「揚屋之図」という作品名に続いて「此六□之絵は菊岡内匠ヨリ□□□□当三年(後略)」とある(注6)。ここで注目されるのは「当三年」という記述である。「屏風之覚」において「揚屋之図」の項目に続き、高師文吾が土佐光起筆と鑑定した「金屏風六枚折」に関する記録がある。この作品については「弘化四年十二月取入二百拾匁土佐画なり(後略)」とあるが、光起筆と目される「金屏風六枚折」の購入時期が弘化4年(1847)であることを考慮すると、その直前に記された「揚屋之図」の「当三年」という記録は、弘化3年を意味しているのではないだろうか。仮に直亮が弘化3年に「彦根屏風」を購入したとして、それ以前の所在地を考える― 416 ―― 416 ―
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