上で重要となる作品が、「彦根屏風」第二扇の傾奇者と第三扇の禿を写した羽川珍重筆「彦根屏風模本」(個人蔵)である。本作は狩野博幸氏によって早くから紹介されており(注7)、とりわけ「延享乙丑弐年葉月 江戸下谷住羽川珍重 沖信写之」の款記に注目したい。ここからは、珍重が延享2年(1745)8月に本作を描いたこと、珍重は下谷住まいであったことがわかる(注8)。浮世絵師の珍重が「彦根屏風」を写すことができた事実に鑑み、狩野氏は「〝彦根屏風〟が町家にあったと考えてさしつかえない」(注9)と述べている。珍重が敢えて「江戸下谷住」と記したことに加えて、楽央斎が下谷で「彦根屏風」を写したと記録していることを踏まえると、直亮が購入する以前、「彦根屏風」は下谷に伝来していた可能性が高まってくる。なお、下谷には狩野永徳の末弟・狩野長信(1577~1654)を祖とする表絵師 下谷御徒士町狩野家が存在した。多くの江戸狩野の絵師らが「彦根屏風」を写した背景には、当該作品が下谷御徒士町狩野家に伝来していたためではないかという想像が膨らむが、ここでは一つの仮定を提示するに留めたい。「彦根屏風」の筆者ともされる(注10)長信は「花下遊楽図屏風」(東京国立博物館蔵)を手掛けていることもあり、御徒士町狩野家は風俗画を重視する家系であった可能性が考えられる。三、楽央斎の本画に見る「彦根屏風」の影響模写をはじめ古画学習に熱心であった楽央斎は、本画の制作においてどのように「彦根屏風」のエッセンスを取り込んでいったのだろうか。本章では二点の作品を取り上げ、楽央斎がいかに「彦根屏風」を重んじて作画にあたっていたのかを明るみにしたい。①「遊女図」東京国立博物館蔵〔図5〕いわゆる寛永美人を強く意識し、唐輪髷を結った立ち姿の遊女を描く。近年、本作は展示の機会に恵まれていないが、明治44年(1911)刊行の田中増蔵編『浮世絵画集』(聚精堂)では図入りで紹介されており、かつては東京帝室博物館(現・東京国立博物館)が所蔵する肉筆浮世絵の名品として扱われていたことが窺える(注11)。落款に「依又平圖 楽央齊休眞畫」(朱文方印「笑庵洞信」)とあるが、楽央斎が作画の際に依拠した「又平圖」とは、当時岩佐又兵衛筆とみなされていた「彦根屏風」のことと想定できよう。本作〔図5〕の制作年代は詳らかでないが、第二章で紹介した「彦根屏風」の模本を手掛けたのちに描いたものと考えられる。― 417 ―― 417 ―
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