鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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研究によれば、ビザンティン文化圏の聖堂では通常「聖母のお眠り」は西壁に描かれるが、これは東壁つまり内陣に描かれている聖母子図と意味上のつながりを持つ(注20)。日の沈む方角であり、終わりを意味する西方向には、聖母が亡くなった場面が描かれ、そこではキリストが赤ん坊の姿をした聖母の魂を抱いている。一方、日が昇る方角であり、始まりを象徴する東方向には、聖母が幼子イエスを抱く姿が描かれている。終わりと始まり、西と東、子が母を抱き、母が子を抱くという、イメージと意味の重層構造がビザンティンの聖堂装飾において定型となっていたのである。イタリアにおいては、西壁には伝統的に「最後の審判」が描かれ、本聖堂の西壁にも同主題が描かれていたと報告されている(注21)。西壁に聖母の晩年にまつわる画題群を描けなかった以上、キリスト復活譚と対となる聖母晩年伝を描くには、身廊の左右両壁面、つまり北壁(福音書側)と南壁(使徒書簡側)を使うのが最適だったと考えられよう。北は日の光の当たらない方角であり、そのため神の言葉(福音)の光を当てる必要がある場として、北壁は福音書側という名称と意味が与えられていた。光の当たる南側には、キリストの贖罪の物語が描かれている。その贖罪の物語が向き合うのは、全人類に先駆けて聖母が体ごと天に迎え入れられた物語であり、それは、キリストの贖罪があって初めて成立することであった。贖罪の恩恵は、福音の言葉と共に、北壁の聖母晩年伝へと注がれている。福音の言葉は、キリスト復活譚に向かって唱えられる文句と共に、同一の説教壇から発されていた。本説教壇が1つの構造体にして二方向を向いているのは、使徒書簡側と福音書側に描かれた、キリスト復活譚と聖母晩年伝の織り成す意味と分かちがたく結びついていたからだと考えられよう。結論ムッジャ・ヴェッキアの説教壇の設置年代は、中央身廊の内陣障壁と左右の身廊の内陣障壁の設置時期が同時期であったことの立証を通して、フレスコ画が描かれた1240年代の後だとする結論を導いた。そして二方向を向く説教壇の機能は、福音書側に描かれた聖母晩年伝と使徒書簡側に描かれたキリスト復活譚の意味内容と連動したものだと結論付けた。演壇状説教壇の書見台は使徒書簡側のキリスト復活譚に向かっており、単独書見台状の説教壇は福音書側の聖母晩年伝に向かって言葉を捧げるために用いられていたのである。キリスト復活譚、聖母晩年伝、そして二方向を向く説教壇は、キリストの贖罪と、それによって聖母が天上で栄光に浴したように、終末の日には義人が救済されるというプログラムを、壁画と典礼装置とのオーケストラとして奏でているのである。それは、西壁に《最後の審判》が描かれていたことと、終末に― 31 ―― 31 ―

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