られ、硯を持つ猿の姿が消えてしまった。ボストン本において辰星は猿に視線をむけているが、楽央斎本では楊貴妃の視線によって描かずして玄宗皇帝の存在を暗示しているかのようだ。ボストン本は美術コレクターとしても著名であった医師ウィリアム・スタージス・ビゲロー(1850~1926)より、1911年にボストン美術館へ寄贈されたという来歴を持つ。ビゲローは1882年に来日し、その滞在中に購入した美術品の多くがボストン美術館へ寄贈されたことを踏まえると、本作もかつて日本に伝来していた可能性が高い。楽央斎がボストン本を直接見ることができたか否かは不明だが、東京国立博物館が所蔵する狩野派模本類のうちにはボストン本と図様を同じくする「辰星像」(模写者不詳〔図8〕)が確認できる。この模本の存在から、狩野派において当該図像が共有されていたことは想像に難くないだろう。駿河台狩野家で修業を積んだ楽央斎も、模本を通じて「辰星像」学んでいたと考えられる。楽央斎は典拠とした作品からいくつか改変を加えているが、中でも注目されるのがその顔貌表現である。細い線を重ねあわせて弧を描くように描かれた眉、切れ長の目元、高くふっくらとした鼻梁、口角を上げ歯を見せて笑うという表現は、「彦根屏風」第二扇の犬を曳く美人と似通う。楽央斎は「辰星像」の型を重んじながらも楊貴妃の華やかな雰囲気を描き出すために、「彦根屏風」から遊里の艶やかな美人の容貌を参照したものと考えられる。おわりに江戸時代にとどまらず、明治以降の江戸狩野派にとっても「彦根屏風」は重要な創作の源であった。例えば暁斎は、楽央斎の模本から「彦根屏風」の図様を学び取り「大和美人図屏風」(個人蔵)を手掛けた(注13)。また、明治2年(1869)に明治天皇からオーストリア皇帝に贈られたと考えられている画帖(ウィーン美術史美術館蔵)には、中橋狩野家第十五代 狩野永悳(1815~91)が描いた大和絵や風俗画を主題とする15図のうちに、「彦根屏風」の写しが含まれている点は大変興味深い(注14)。江戸幕府の御用絵師であった狩野家が新政府のもと明治以降も画業を続けていく上で、「彦根屏風」は重要な画題の一つであったということなのだろう。漢画を得意とした狩野派が積極的に風俗画を描いた背景には、明治維新を迎え海外に向けて自国の美術を紹介するにあたり、日本独自の風俗描写を用いる方が効果的であるという考えがあったのかもしれない。― 419 ―― 419 ―
元のページ ../index.html#431