鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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う場を経由して見る。大正から昭和へと移る1920年代から30年代にかけ、顧客を一般大衆へと拡大しようとの百貨店の動きが加速する。従来の呉服店系百貨店による新店舗開店に加え、電鉄系百貨店、いわゆるターミナルデパートが登場し、百貨店間の顧客獲得競争が激化すると、広告も急増した。1930年に神戸大丸から大阪高島屋に図案係として転じた今竹七郎は、「当時大阪は東京よりも人口の多い日本一の大商都でした。大企業が集中していて、百貨店も本店格の偉容を誇るものが街の要所要所にそびえ、街全体がライバル戦で狂気している感じにとれたんです」(注4)と振り返っている。戦後、統制経済の解除とともに百貨店が営業活動を再開し、戦前の活況を取り戻すと、その宣伝競争も復活する。大阪では戦後1950年代まで、百貨店は広告制作者にとって大きな活躍の場のひとつで、図案や意匠を学ぶ学生の主な就職先であった(注5)。彼らは、インハウスデザイナーとして、つまり会社員として業務である広告制作にあたっている。当時の百貨店デザイナーの裁量の大きさを測る明確な資料や証言は現時点で認められていないものの、その仕事量と時間的制約が非常に大きいことから、裁量の程度以前の問題として、営業担当者がひとつひとつの広告に関与する余裕はなかったと推測される。また前述のとおり、自らの職能の振興と認知を図り、団体結成や広告コンペへの応募、展覧会開催など、所属企業外での活動にも積極的に取り組んだ広告制作者は戦前から少なくなく、もとより正規の美術教育課程を修めて広告業に入る者も多かった。つまり広告分野には、たとえ会社員の制作であっても個の技量が評価対象とされ、制作者がそれを求める素地が見られる。戦前から1970年代の後半まで、会員企業から収集した広告印刷物の現物を折り込み、批評や解説を掲載した冊子とともに頒布してきたプレスアルト研究会(注6)は、第80号(1949年)で、近鉄百貨店ではなく、近鉄百貨店所属の早川良雄個人を特集している。さらに、先に言及した今竹の神戸大丸から大阪高島屋への転出、戦後は阪急から東京高島屋に移籍した山城隆一などの同業他社への転職の例を見ても、力量を認められた制作者が、所属企業をスプリングボードとして次へと進むことは、特段諌められることではなかったのであろう。個への評価と企業への所属という職業の在り方は、1951年の日本宣伝美術会(東京と大阪)の発会による広告制作者間の東西交流や、日本工房をルーツにもつライトパブリシティ(1951年創業・東京)を嚆矢とする広告制作会社の設立によって、大きく揺さぶられる。1950年代後半から1960年代は地方から東京への人口流出が急激に進んだ時期であるが、より幅広い活動とさらなる評価を求める制作者、特に、まだ独立し― 426 ―― 426 ―

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