鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
439/643

て自らデザイン事務所を構えるに至らない若い世代に、東京はその規模と可能性とともに、新しいステージを用意したのである。産経新聞大阪本社のデザイナーであった田中一光は、1957年にライトパブリシィに入社し、また、1959年12月に創設された日本デザインセンターには、大和紡績の永井一正や、木村恒久、片山利弘(注7)が大阪から加わった。日本デザインセンター創立の発端となった朝日新聞社の鈴木松夫が「ひとりの個性の強いデザイナーのデザインが企業の顔である時代はやがて終わるのではないか」と発言したことを、永井は記憶している(注8)。後に、田中、永井、木村、片山の4人の制作物は、「作品」として評価され、日本デザイン史に記録される。プレスアルト研究会は、137号(1955年)の田中一光特集の後、個人の特集は出していない。個の発揮を求める広告制作者にとってインハウスデザイナーという選択肢の魅力と活動拠点としての大阪の磁力が弱まったことは、1960年以降、大阪の広告、そしてグラフィックデザインに日本デザイン史の評価の目が届かない要因のひとつと考えられる。工業製品 ─「家電王国」大阪「家電王国」という言葉は、戦後、飛躍的に成長し、世界的にもその名と製品が知られるようになった電機メーカーが日本、そして大阪に複数存在したことから、日本や大阪を表する言葉として、たびたび使用されてきた。しかし、この言葉が日本を表する場合と大阪を表する場合では、意味がやや異なる。前者については、海外家電市場での日本製の商品の価格、のちに質の優位を認めての表現であるが、後者は、電機産業において大阪の特徴が家電、つまり社会的インフラを整備するための重電機メーカーによる大型発電機や、有線通信機メーカーによる電話交換機などの製造ではなく、民生用電機製品と電子製品にほぼ特化していることを示す。後者のこの特徴は家電普及以前の歴史的経緯による。日本の電機工業は、明治期から急速な発展を遂げるが、財閥系大資本による独占が顕著であり、昭和期そして戦後の財閥解体を経ても、その寡占は変わらなかった。大規模かつ長期の研究開発や設備投資が求められる重電機製品については、個人資本の企業が参入する余地はなく、また、電話を中心とする有線通信はそもそも官営事業であり、その需要に応える限られた企業によって独占されてきた。こうした状況下、大阪の企業が商機を狙えるのは、ラジオなどの無線機器を含む弱電分野などの一部に限られた。そのなかでも松下電器は、創業製品の配線器具に加え、電池式ランプ、電熱器と商品の幅を広げていき、戦前のうちに重電機メーカーの独占分野であった発動機開発に着手し(1933年)、小型― 427 ―― 427 ―

元のページ  ../index.html#439

このブックを見る