モーターの内製に漕ぎつけていたため、戦時中の軍需生産において蓄積した技術とあわせて、戦後、洗濯機といった家庭用重電応用製品の拡充をいち早く可能とした。これが、戦後の家庭電化における松下電器の優位性につながる。電機産業のこうした傾向は数字に明らかである。1951年、主要重電機メーカーの上位3社による重電機製品と家電製品の生産割合は、全体を10としたとき、日立製作所が重電3に対し家電0.7(残りはその他、以下同様)、東京芝浦製作所(現在の東芝)が重電4.7に対し家電4.2(東京芝浦製作所は、芝浦製作所と電球を創業製品とする東京電気が合併して興った企業であるため、家電割合が高い)。そして三菱電機が重電6に対して家電0.8である。対照的に、松下電器は重電0.6に対して家電5である(注9)。大阪の三洋電機、早川電機(現在のシャープ)については、重電機製品の生産がない。しかし、家電製品において、大阪の企業が東京の重電メーカーをおさえて、家電製品市場を独占してきたわけではない。1950年代後半、電源開発など本業が一段落した重電メーカーは、家庭電化の急速な普及と家電の収益性の高さを目の当たりにし、家電分野に本腰を入れる。それによって、さらに家庭電化が進み、家電もつくる重電メーカーと家電専業のメーカー間、東京と大阪併せて企業間競争が激しくなっていく。一方、デザインに対する意識はどのようであったか。1951年は日本の工業製品のデザインにとって、ひとつの分水嶺と言えよう。まず、アメリカからレイモンド・ローウィが来日し、工業製品生産の場を視察するとともに、インダストリアル・デザインについて工芸技術庁工芸指導所で講演している。「インダストリアル・デザインの対象は広範に渉っているため、デザインをまとめるには、少なくとも専門的知識や技術を持った人達が少なくとも3種類は必要です。それはあらゆる分野に渡るデザイナーと、機能を良く知り、それを応用して新しい機能を考え得るエンジニア、そして今1つ購買者や販売面の心理を洞察する能力のある人です。」(注10)また同年、千葉大学工学部に工業意匠学科、東京芸術大学に工芸科工芸計画専攻が設置され、松下電器はその千葉大学工学部に前年着任した真野善一を招聘し、宣伝部に製品意匠課を創設している。これを皮切りに、各社でデザイナーの採用がはじまった。三洋電機や早川電機でも、意匠を冠する部署の設置は1960年代を待つものの、1950年代から工場や技術部などに担当を設け、徐々に、技術・機械的な設計から分離― 428 ―― 428 ―
元のページ ../index.html#440