スは単色であったが、坂下は、大阪は船場、繊維商が集まる界隈で生まれ育ち、華やかな織物の意匠に慣れ親しんでいたこと、またヨーロッパの家庭ではその空間に花柄が溢れていると思いに至ったことから、花柄の発想につながったと語る。食住分離、ダイニングキッチンが普及するなか、新たなライフスタイルの食卓に花柄は明るさをもたらすとも考えた。早速、大学時代の同期生を通じて京都の友禅作家に作画を依頼し、ケースを展開した状態と同じ扇型の台紙に花園のように広がる花の絵を描いてもらう。この絵を採用した花柄の卓上ポットは1967年に発売されるが、花柄は即座に他社に模倣され、同時に卓上ポットの売り上げを数年で倍にまで押し上げている(注13)。花柄卓上ポットの登場は魔法瓶メーカーの転換期と一致する。魔法瓶は戦前から輸出を中心として成長してきた大阪の地場産業であり、戦後、国内向けの卓上ポットやご飯の保温のためのジャーを展開した。しかし、1960年代に入るとジャーの需要はその保温力の限界から売り上げは下降する。「朝、ご飯を炊くと、当然お父さんが夜、会社から帰ってくるころにはご飯は冷えている。ジャーに入れても冷める。ホカホカではない(注14)。」1970年、象印マホービンは魔法瓶から脱却し、電気で保温する電子ジャーの発売に踏み切るが、これは魔法瓶メーカーの家電分野への参入と家電メーカーとの競争を意味した。「我々は象だけど、マンモスみたいな業界には入りたくないんだ(注15)」と社長の市川重幸は慎重だった。したがって相当な覚悟をもって市場に送り込んだ電子ジャーであるが、発売10ヶ月で早くも100万台と想定以上を売り上げる。第1号製品に採用されたケース意匠は花柄で、花柄は家電製品となる。今後の研究の課題収集した資料を検証すると、前述の家電製品しかり、本稿ではふれることのできなかった工業化住宅のインフィル製品しかり、流通と販売のシステムやコストの問題、売り上げが、デザインの行方を左右することとして大きく浮上する。造形の優劣と新奇性に偏り、「作品」を点のみ示すことは、デザイン史に奥行きと展開の連続性を与えない。点と点をむすぶ見えない線と、見えない線を線がつくる見えない面のなかで発展し、あるいは失敗した「モノ」のなかに大阪のデザイン活動がある。最後に、在阪企業から収集した未だ整理にいたっていない資料も多く、今後も研究活動の継続は不可欠であるが、2018年度は本助成によって大きな前進を見ることができた。その成果はとても本稿で報告しきることができないが、鹿島美術財団と本研究にご協力いただいた企業関係者には心よりの感謝の意を表したい。― 430 ―― 430 ―
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