進行について言うと、私は第一に、頭も身体も具合がいい時ならば、空想の起る状態を制御し得るようになった。[中略]すべて必要条件が備わっている時、私は必ずその状態が来ることを受け合うことが出来、又その状態を起こす能力に似たものをさえ感じるのである(注16)。さらに彼は、眠ろうとする瞬間から眠りに陥るまでのごく短い時間の状態を捉え、そこで起こる空想を「記憶の領域に持って来ること」が出来るようになり、それによって、「その点(的)な記憶を、解析できる位置に移すことが可能になる」と書いている(注17)。このポーによる実験、すなわち特殊な心的経験を意識的に引き起こし、それを記憶し解析するという実験は、まさに先の引用文でローゼンバーグが近代詩の条件として挙げた3つの条件のうちの「(1)宗教的な体系への依存から解放されたインスピレーションによる創作という問題をつきつめること」、および「(2)詩の方法を科学の実験と同じものにすること」に合致している。つまり、ポーが「表現」で示すインスピレーションについての見解は、ローゼンバーグの論の土台となすものであると思われる。一方、ヒュルゼンベックは、詩作におけるインスピレーションについてポーとはまた異なる考え方を示す。『ポシビリティーズ』では、ダダが未来派から引き継いだ騒音主義(bruitism)について論じる箇所が多く抜粋されている。一般に騒音主義とは、機械化、工業化された都市の騒音に触発されて生みだされた音楽や詩のことを言うが、ヒュルゼンベックはそこに独自の解釈を加え、そうした都市の騒音が「動的な状態にある生」として人間の「暗い生命的な力」に直接的に働きかけ、行為を促すのだと言う。数字、その結果としてメロディが、抽象への能力を前提とする象徴であるのに対し、騒音は行為に対する直接的な呼びかけである。音楽はハーモニー的であるが、騒音主義は生そのものである。それは私たちの個性(personality)の一部であり、私たちを攻撃し、私たちを追跡し、私たちを粉々に引き裂く(注18)。ヒュルゼンベックにとって、騒音は連続性を持たず、常に同時的である。それゆえ、特定の意味に象徴化されることはなく、理論的体系的な思考を阻む。その代わり、人間の「生」すなわち衝動のような生命的なエネルギーに直接働きかけ、「行為すること」へと向かわせるのだという。― 436 ―― 436 ―
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