私を取り巻く日常的な出来事(大都市、ダダのサーカス、衝突、かん高い響き、蒸気の音、家の前、ローストされた仔牛の匂い)から、私は直接的な行為へと私を始動させ、大いなるエックスになりはじめる衝動を得る。私は自分が生きていることを直接的に認識する(注19)。このように、ヒュルゼンベックにおけるインスピレーションは、ポーのように個人の心的経験のなかだけで起こるのではなく、外的な日常世界から生起するものである。ヒュルゼンベックにとって、外的世界と内的世界は「生」のエネルギーによって連続している。「生」とは、常に「動きの状態にあるもの」であり「火山のような性質」をもつ。「騒音主義とはある種の自然回帰である。それは原子の巡回によって作り出される音楽なのだ」とヒュルゼンベックは書いている。こうして詩人は、都市の騒音をインスピレーションとして作動する衝動を、直接的で自動的な行為へと変換することで制作を行う。騒音詩や同時進行詩とはまさにその実験的行為なのである。おそらく「ポーとダダの討論」でローゼンバーグとマザウェルが提起しようとしたのは、二人の詩人の制作態度の連続性と差異の両方であったと思われる。ポーはインスピレーションを自ら引き起こし、これを受け取り、具現化する方法を追求した最初の近代詩人として紹介され、ヒュルゼンベックはその後継者のひとりと位置づけられる。だが同時に、ポーが自らの心的経験のうちからインスピレーションを得るのに対し、ヒュルゼンベックは外的エネルギーと心的エネルギーの相互作用的経験からインスピレーション得る。しかも、ヒュルゼンベックは、ポーのようにインスピレーションを詩作のなかで知的に検証することは行なわず、直接的な行為として詩作を行うのである。つまり、ヒュルゼンベックにとって、詩の制作とは、インスピレーションが生起したという出来事それ自体なのだといえる。4.アクション・ペインティング批評とデューイ『経験としての芸術』『ポシビリティーズ』発行からおよそ4年後の1952年、ローゼンバーグは『アートニューズ』誌に「アメリカのアクション・ペインターたち」(以下「アクション・ペインターたち」と略)を発表する(注20)。「あるとき、一群のアメリカの画家たちにとっては、カンヴァスが、実際のあるいは想像上の対象を再生し再現し分析し、あるいは“表現する”空間であるよりはむしろ、行為する場としての闘技場に見え始めた」という有名な一節が書かれたこの論考では、「カンヴァス上で起こるのは一枚の絵(picture)ではなく、複数の出来事(events)」であるとする新たな絵画の定義づけが― 437 ―― 437 ―
元のページ ../index.html#449