鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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㊶ 朝鮮王朝後期における日本の金屏風に対する認識の変化について類似の作品を一例に─研 究 者:釜山大学校 非常勤講師  朴   晟 希はじめに近世の日本と韓国は、前近代において類例のないほど長年にわたって比較的安定した国交関係を結んでいた。その中で、両国の間には相手国の絵画とそれに関する情報が多く交換・蓄積され、日韓の絵画史を豊富にすることに寄与したと思われる。その様相は、20世紀後半から続いた美術史学の研究を通じて、明らかになりつつある。特に、近世交隣関係の後期に当たる18世紀後半以降には、以前とは異なる、互いの絵画に対する認識の変化が文献や作品において見られるようになる(注1)。本稿では、18・19世紀における日韓絵画交流の新たな局面の中で触発された、日韓両国の絵画に対する相互認識(注2)の変化というテーマに目を向け、朝鮮王朝時代後期における日本絵画に対する認識の問題について、金屏風を例に挙げて述べる。これまでの近世日韓絵画交流史の成果を踏まえた上で、日韓それぞれの絵画史、延いては、近世東アジアの絵画史において、日韓絵画交流史がどのように位置付けられるかという議論を、さらに深化させるための一つの試論である。一、日本の金屏風に関連する朝鮮王朝時代後期の記録まず、本稿で使う「(日本の)金屏風」という言葉について簡単に説明しておく。これは、朝鮮側から見た日本式の屏風、特に金を使って装飾した屏風を指す総称である。韓国の伝統の屏風とは異なる、鉱物性の素材を利用し、装飾性の高い日本の屏風を指す用語として、現在にも通用する言葉である。日本の屏風に対する明確な理解ではないものの、日本の屏風の独自性を認めた名称ではあるといえよう。周知の如く、金屏風は中世より日本が世界の諸国に贈呈する代表的な外交の贈物であった。先行研究(注3)によると、朝鮮王朝時代後期に限っても、大量の金屏風が様々なルートを通じて朝鮮国内に流入していた。同時代の朝鮮人たちにとって、金屏風は日本絵画を代表するジャンルとして認識されるようになったと思われる。ときには、屏風に描かれた画題が朝鮮王朝の儒学的倫理観に合わず、論難の的になることもあった(注4)。だが、縁取りのない表装形式によって横長に広がる大画面を具現したこと、そして鉱物性の絵具を多用し装飾性を高めたことなど、金屏風の持つ長所と― 444 ―― 444 ―─ 伝金弘道筆「金鶏図屏風」(韓国・三星美術館Leeum蔵)と

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