いうべき特性が徐々に認められ、18世紀後半以降、朝鮮の屏風、特に彩色の屏風絵に影響を与えることになったと考えられる。そのような認識の一端が窺える、19世紀の記録を2件紹介する。〔記録1〕我東屏制始来自倭、今遍八域。(中略)倭屏金画者亦可張之寝室。暁旭纔升、能令四壁明晃。華金読耕記記録1(注5)は、実学者・徐有榘(1764~1845)が著した『林園経済志』の「贍用志」巻3「起居之具 障護諸具」屏条の記録である。二つの点に注目したい。第一、徐有榘は当時の朝鮮の屏風が日本に由来すると思っていたようである。おそらく、同時代の記録で「倭装(倭粧)屏風」と記された屏風の形式(現在、韓国の学界では「連幅屏風」と呼ぶ(注6))、を意識した言述と推定される。19世紀前半において、既に連続に進む画面構成の屏風絵が朝鮮で作られる屏風の一般的な形式になっていたことを窺うことができる。第二、「倭屏金画」という言葉が出る。彼は「日本の金屏風は寝室に立てておくに値する。暁の朝日がわずかに昇ると、四壁を明るく照らすことが十分にできるためである」と言っている。「日本の屏風=金屏風」の公式が成立していたようである。それから、日本の屏風の用途として、鉱物系の絵具である「金」が自然光に当てられて周囲を照らすという、視覚的効果が重要視されていたことが分かる。〔記録2〕倭人善画。画丹楓樹下黄菊爛開。蘭与竹間之。石上金鶏報曉。海色朦朧。此果名画也。正廟朝命金弘道描写一本。在華城行宮。(後略)記録2(注7)は、文臣・李裕元(1814~1888)の文集『林下筆記』巻30「春明逸史 金鶏画屏」に収録されている。この記録によれば、国王・正祖(在位1776~1800)は、宮中画員・金弘道(1745~1806?)に日本の金屏風を模写するよう命じ、それを自ら建てた華城行宮(注8)に置いたという。この記録は、朝鮮王朝時代後期における日本絵画の受容という面において非常に重要な記録と思われる。正祖は1783年、国王直属の宮中画員である差備待令画員(注9)の制度を整備するなど、当時の宮中絵事に積極的に関与していた(注10)。儒学者でもあった正祖は、― 445 ―― 445 ―
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