鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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物を省略する理由があったとは考え難い。ギメ本はリウム本の模写本というよりは、リウム本と同じく、原図の図様を利用して制作された作例として見た方が妥当であると思われる。三、金弘道筆金鶏画屏の図様の源流ところで、リウム本とギメ本の画面構成は、狩野元信(1476〔または77〕~1559(注14))が明帝への贈物として制作した金碧の四季花鳥図屏風の様相を今日に伝える作例と見なされている、白鶴美術館蔵の1549年作「四季花鳥図屏風」(注15)の左隻〔図4〕を左右反転したイメージ〔図5〕と、基本的に一致している。それでは、何故、秋景を描いた一隻のみの屏風にしたのであろうか。朝鮮国内では、屏風は日本のように二つで一双という形式ではなく、一隻が一つの屏風の独立した単位として成立していた。それを「屏風一坐」と呼び、朝鮮通信使が日本国内で贈られた日本の屏風を分配するときにも、一坐ずつ分け合っていたことが現存する使行記録を通じて確認できる(注16)。また、現存する贈朝屏風の伝来の来歴を検討すると、朝鮮王室における日本の金屏風の享受の様相を窺うことができる(注17)。原図は日本の四季花鳥図屏風一双のうち一隻を選んだ上で、六曲の画面の左右を少し伸ばし、朝鮮国内で通常使われていた八曲屏風一坐に調整して成り立った作品と考えられる。狩野元信が確立した四季花鳥図屏風の様式を受け継いだ作品の一部を朝鮮式の八曲屏風の画面に写したものであると想定できる。したがって、原図は、金弘道が既に秋景に鶏を主題とした右隻(リウム本の画面展開方向による)のみ伝わる日本の金屏風を模写したものである可能性が高いといえる。補足すれば、日本絵画を模写する際、朝鮮風にアレンジする手法は、次世代の山水図などの画題においても見られる傾向である(注18)。このような制作傾向は、日本の金屏風の模写本を作る際にも適用されたようである。そこで生じる疑問は、当然、どのような作品を写したかということであろう。これまで知られている文献資料では、確定できない状態である。今のところでは、朝鮮通信使が再開された17世紀初頭の伝来が有力ではある。だが、仮に、正祖が伝えられたばかりの金屏風を模写させたとすれば、朝鮮通信使を介しない伝来ルート、18世紀後半─末葉における日韓交易の記録を改めて調査する必要がある。もしものこと、15・16世紀に伝えられた屏風が戦乱の時代を乗り越えて、18世紀末葉まで遺されていたという見解(注19)も、可能性は低いが全面的には否定できな― 447 ―― 447 ―

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