鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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⒁ 武田恒夫『近世初期障屏画の研究』吉川弘文館、1983年、京都国立博物館編『室町時代の狩野派─画壇制覇への道─』中央公論美術出版、1999年、武田恒夫『狩野派障屏画の研究─和様化をめぐって─』吉川弘文館、2002年、山本英男『月刊日本の美術485 初期狩野派─正信・元信─』至文堂、2006年10月、辻惟雄『戦国時代狩野派の研究─狩野元信を中心として─(新装版)』吉川弘文館、2011年(初版1994年)、『狩野元信─天下を治めた絵師─』展図録、サントリー美術館、2017年など。⒂ 田中敏雄「白鶴美術館蔵 狩野元信在銘 四季花鳥図屏風」『美術史』70、1968年6月、52-55頁(『近世日本絵画の研究』作品社、2013年に再録)、矢野明子「狩野派金碧障屏画の様式的展開に関する試論─四季花鳥図屏風を中心に─」『国華』1340、2007年6月、7-22頁、同著「狩野元信筆 四季花鳥図屏風」(前掲と同誌・同号)、23-25頁、及び前掲注⒁の参考文献など。⒃ 1763~1764年朝鮮通信使の正使・趙曮の使行録『海槎日記』の記録を例に挙げる。『海槎日記』「各処書契」には、日本で贈られた各種の公・私礼単の目録が記されており、そこで屏風を数える単位は「双」である。しかし、礼単の目録に続く「各処書契 雑物分派記」においては、屏風を数える単位は「坐」と変わっている。朝鮮通信使が日本の屏風を分配するときには、「兵房三員各金中屏風一坐」と書かれたように、使行員一人当たり屏風を一坐、すなわち一隻ずつ与えたことが分かる。朝鮮国内での常識に従ったためであったと思われる。原文は、韓国古典綜合DB(前掲注⑺)。⒄ 王室に受け入れられた昌徳宮旧蔵の2件3点は、朝鮮でも見慣れた花鳥を題材にして、吉祥の意味を比較的分かりやすく伝えるものであった。『日本絵画調査報告書(昌徳宮所蔵)』韓国・1((韓国・国立古宮博物文化財管理局、1987年、『(館所蔵品図録6)宮中書画1)』韓国・国立古宮博物館、2012年、図196~198など。一方、王室に受け入れられず流出したとされる3件3点は、日本の武士の故事、祭礼などを題材にしたため、背景知識がなければ到底理解できないものであった。鄭美娟「国立中央博物館 所蔵 通信使 受贈 日本 金屏風 考察」『美術資料』91、2017年6月、186-218頁。氏は、第71回美術史学会全国大会(於東北大学、2018年5月)において、同一の内容で口頭発表をした。⑾ 金貞淑「(正祖)⑿ 洪善杓「⒀ 「(鶏)」『韓国文化 ⒅ 筆者の博士論文(前掲注⑴)第5章で述べた、1811年朝鮮通信使の随行画員・李義養(1768(朝鮮王室の美術文化)』Daewonsa、2005年、291-321頁。((33種の動物で見た)我が文化における象徴の世界)』Dareunsesang、2001年、148-(逐鬼) (酉・鶏)(黎明・逐鬼の酉・鶏)」161頁、千鎮基「 (韓国動物民俗論─文化の秘密を解く:『 もう一つの鍵─)』民俗苑、2003年、353-373頁、鄭高詠「鶏 Ji」『中国の十二支動物誌』白帝社、2005年、290-319頁など。~?)筆「倣谷文晁山水図」はその一例である。(絵画観)(正祖の絵画観)」李成美ほか『(金弘道の生涯の再構成)」『(韓国文化における象徴の事典)』東亜出版社、1992年、197-202頁、深津胤房『古代中國人の思想と生活─鶏─』深津胤房、1999年、金宗大「: (鶏─夜明けを告げる─)」『(33(明)・ ― 451 ―― 451 ―(朝鮮王朝時代の絵画)』韓国美術研究所CAS、2014年、307・注516-517頁(初出『美術史論壇』34、2012年)。金弘道は、華城建設の際、多くの絵事にかかわっていたとされる。筆者も氏の意見に賛同している。ただし、氏は、リウム本を金弘道筆金鶏画屏(原図)と見なしている。6) )

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