鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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・王立図書館(Det kongelige Bibliotek)ヒアシュプロング・コレクションには、ハマスホイの母フレゼレゲが作った4冊のスクラップブックが保管されている。フレゼレゲは、ハマスホイがデビューした1885年4月から自身が亡くなる直前の1914年5月まで、画家に関する新聞記事をスクラップブックに綴じており、今回の調査では、その全データを入手した。王立美術アカデミー付属図書館と王立図書館では作品の画像資料、同時代の展覧会目録、雑誌および新聞記事の調査を行なった。以下、調査で得られた資料をもとに、19世紀末から20世紀初頭のコペンハーゲンにおける室内画の位置付けについて考察する。まずはじめに室内画が当時どの程度デンマーク美術に浸透していたのか、同時代のコメントからその輪郭を素描する。①19世紀末から20世紀初頭のコペンハーゲンにおける室内画の隆盛ハマスホイは1888年に最初の室内画を描き、その後も断続的に同主題を扱っているが、室内画家として、独自の表現を確立するのは1898年以降のことである(注3)。従って本稿の冒頭に引用した1889年のマスンのコメントは、ハマスホイが「室内画の画家」になる以前から、コペンハーゲンには室内画を描く多くの画家と、それらを求める人々が存在していたことを示している。同様のコメントは、外国人のものも含めて、少なくとも1900年代までの新聞記事や雑誌の評論に散見される。例えば、マスンの批評から8年後、1897年のPolitiken紙には、スウェーデン人作家トア・ヘズベリ(Tor Hedberg 1862-1931)による以下の言葉が見られる。「今日のコペンハーゲンほど室内画が描かれる場所はないと思われる。いずれにしても、コペンハーゲンの画家たちが描くような室内画が描かれる場所は他にない。」(注4)さらにその11年後、ノルウェーの美術史家イェンス・ティース(Jens Thiis 1870-1942)は、シャロデンボー春季展と自由展のレビューの冒頭で以下のように述べた。「デンマークのように、画家たちが倦むことなく彼ら自身の居間を描く国は他にない。」(注5)― 457 ―― 457 ―

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