㊸ 明治期における日本の輸出植物とジャポニスムに関する調査研究研 究 者:ポーラ美術館 学芸員 山 塙 菜 未1.はじめに本研究の目的は、明治期から大正期における殖産興業政策としての「植物輸出」の実態を明らかにすることにより、日本から輸出された植物がジャポニスムに影響を与えていた可能性をより明確にすることである。筆者はこれまでに、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのジャポニスムと同時期に、西洋において起こっていた日本植物ブームが、明治期における日本の内外博覧会での殖産興業政策による園芸振興と植物輸出に繋がっていたこと、また西洋で人気を博した日本の植物が、明治期の輸出向け工芸品の意匠にも影響を与えていたことを指摘した(注1)。明治6年(1873)のウィーン万博において初めて日本政府は植物を出品し、明治9年(1876)のフィラデルフィア万博や明治11年(1878)のパリ万博にも、日本庭園とともに鑑賞用の樹木・植物が積極的に出品されている。そうした動きは明治10年(1877)から始まる内国勧業博覧会にもダイレクトに反映され、日本園芸会(注2)や横浜植木商会(注3)といった大規模な組織が国を挙げて創設されるなど、ジャポニスム期には工芸品だけでなく、植物も殖産興業政策の一環として輸出が振興されていた。しかし、現段階では内外博覧会における植物展示などの園芸振興の状況分析と、日本で輸出向けに生産された工芸品の意匠と輸出植物との事例検証にとどまっている。今後、欧米のジャポニスムの作家や作品と、輸出植物との関係性を指摘していくためには、輸出植物の種類や輸出先の国(地域)、輸出量といった基本データを揃えるとともに、海外での具体的な需要の様子、特に美術家やデザイナーたちに、植物が浮世絵や工芸品と同様に「日本的」なるものとして受け入れられ、求められていた事例を検証していく必要がある。また、ジャポニスム研究においては日本からの輸出向け工芸品や浮世絵の輸出は1870年代から1880年代中頃にかけてピークを迎え、1900年以降はジャポニスムも徐々に終息していくとされている。しかし、例えば輸出向けの着物は明治43年(1910)前後にイギリスでブームとなるなど、美術におけるジャポニスムと入れ替わるように、建築やファッション、詩、音楽など、日本の影響が新たに盛り上がりを見せる分野があることが、近年の研究で明らかにされている(注4)。「園芸のジャポニスム」における、美術のジャポニスムとの時期的なずれや、影響を与えた地域の差異を精査することで、ジャポニスムの時間的・地域的な広がりに新たな見解をもたらすことが出来ると考えている。本稿では、まず明治期における植物の輸出量― 466 ―― 466 ―
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