鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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や輸出先を明らかにした上で、横浜植木商会が発行していた海外への植物販売用カタログである「花目録」を手掛かりに、実際に海を渡った日本の植物の種類を検証する。2.明治期における植物の輸出状況開国後に来日したヨーロッパのプラントハンターたちによって、日本の珍しい植物はイギリスを中心に紹介され、徐々に人気を集めていった。横浜の居留外国人の中には、明治初期から日本の植物を扱う商人が現れ、1880年代前半にはドイツ人のルイス・ボーマー、イギリス人のアイザック・バンティング、アメリカ人のサミュエル・コッキングなどが、植物の輸出や居留地での販売で成功を収めている(注5)。明治23年(1890)の横浜植木商会の設立までは、こうした外国人商人が輸出をほぼ独占している状態であり、また先行研究では、輸出植物の種類は海外で圧倒的な人気を誇っていたユリ(ユリ根)にほぼ限られていたとされている。慶応2年(1866)より残されている日本からの輸出記録(『各開港場輸出入物品高』)によれば、植物類が輸出品として計上され始めるのは明治3年(1870)のことである。神奈川、兵庫、大阪、長崎、函館、新潟の各港より輸出された品目とその数量が細かく記載されており、植物類に関しては「植木苗」の名目で、神奈川より198箱、長崎より7箱が出荷されている(明治3年上半期の出荷量)(注6)。横浜の外国人商人の住所録『ジャパン・ダイレクトリー(Japan Directory)』には、明治3年(1870)から植物商の情報が掲載されているため、ボーマー商会といった大手の外国人植物商が活躍し始める1880年代より前の明治初期から、すでに植物輸出は開始されていたことが分かる。ちなみに、慶応3年(1867)のパリ万博を終え、ヨーロッパで日本の工芸品に対する需要が高まりを見せつつあった時期に、陶器は1613箱、漆器は798箱が出荷されている(注7)。翌年(1871)の下半期の記録には、「植木苗」だけであった名目に変化が見られる。「植樹」という品目に加えて、「百合根」が独立した品目として記載されていることから、海外における日本のユリの人気を受けて、ユリ根の輸出量が徐々に増えていった様子が分かる。後には日本の植物の代名詞として、重要輸出品目にも数えられることになるユリ根だが、明治4年(1871)下半期の時点では「植樹」の約250箱(横浜、兵庫、長崎より出荷)に対し、ユリ根の数量は50箱で輸出港も横浜のみであった(注8)。「植樹」の詳細な内容は不明であるが、ユリ根以外にも複数の植物が出荷されていたことが読みとれる。明治6年(1873)からは、「植樹」の主な輸出先(国名)が記録されている。輸出― 467 ―― 467 ―

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