鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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量が最も多いのは支那(中国)であり、続いてアメリカ、イギリス、そしてわずかではあるがフランス、オランダにも供給されている(注9)。ここで、同時期に欧米のジャポニスム旋風が求めていた工芸品の輸出状況と比較してみたい。明治7年(1874)の漆器の輸出額は、中国へは約85,955円、イギリスへは約66,835円、フランスへは約32,300円、陶器の輸出額は、中国へは約38,891円、イギリスへは約35,642円、フランスへは約9,614円となっている(注10)。明治初期、確かに中国へは最も多くの品目が出荷されており、アメリカに次いで2番目の総輸出額をほこるなど、日本の輸出相手国として中国は非常に大きな存在であった。しかし、漆器や陶器のイギリス、フランスへの輸出額が、中国への輸出額に迫る勢いを見せているのに対して、「植木」に関しては中国への輸出額が圧倒的に多く、次いでアメリカと、ヨーロッパのジャポニスムと密接に結びついていた工芸品の輸出状況とは大きく異なることが分かる。1880年代を通して、ユリ根とその他の植物の輸出額は順調に増えていく。ユリ根の輸出額は明治15年(1882)に約13,435円、明治23年(1890)に約25,017円、その他の植物の輸出額は明治15年に約4,591円、明治23年に約17,232円となり、輸出先には英、仏、独、米、中に、ロシアやオーストラリア、イタリア等が加わってくる(注11)。イギリスへの輸出額は大きな伸びを見せているものの、やはりトップは中国であり、1880年代を通してこの傾向が続いていく。ところが1890年代に入ると、各国への輸出額に大きな変化が生じる。明治26年(1893)のユリ根の輸出額は対イギリスが最も多くなり(注12)、明治28年(1895)には、上位五ヶ国が上から順にイギリス、アメリカ、ドイツ、香港、フランスとなる(注13)。1890年代になってようやく、輸出工芸品と同様に欧米諸国への出荷が大部分を占めるようになったことが分かる。こうした日本植物の輸出国の構成比の変化には、明治22年(1889)の日本園芸会、そして翌年の横浜植木商会の設立が大きく関係していると考えられる。それまで植物輸出の利益を独占していた外国人商人に代わり、日本人商人が中心となって植物輸出を推し進めるために立ち上げられた両組織は、特に欧米への輸出に力を注いでいる。日本園芸会は、月刊の『日本園芸会雑誌』を通じて欧米の園芸業界の近況を知らせ、国を挙げた植物輸出の強化に寄与することを目的としており、同誌にはイギリスやフランスでの植物共進会の様子や、ベルギーやオランダ、アメリカなどの園芸情報が記載されている。さらに、同誌を各国の主要都市の園芸関係機関や植物園、植物商に頒布する旨を宣言しており、植物商の広告を募っている(注14)。イギリスではロンドン、エジンバラ、ダブリン、フランスではパリやマルセイユ、ドイツではベルリン、ドレスデン、ハンブルク、その他にも香港、ロシア、オーストリア、イタリア、ベル― 468 ―― 468 ―

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