積極的に紹介する意図があったことが分かる。花目録に掲載された英語書籍の中に、ジョサイア・コンドル(1852-1920)の Landscape Gardening in Japan や、The Floral Art of Japan、Theory of the Japanese Flower Arrangement といった著作が含まれていることも、そのことを裏付けているのではないだろうか。ユリは例外であるとしても、その他の植物に関して言えば、やはりジャポニスム初期からの美術工芸品の輸出によって、日本を想起させる植物とみなされていた種類が、人気を得て輸出量を増やしていったと考えられる。4.おわりに─植物輸出がジャポニスムにもらたらした影響最後に、これまでに見てきた明治期の植物輸出の状況を考慮しながら、輸出植物がジャポニスムにもたらした影響について考えたい。ここでは、ジャポニスム初期から大量にヨーロッパへ渡っていた美術工芸品のモティーフとして、すでに「日本イメージ」が定着していた植物と、ユリのように、日本の伝統的な美術工芸品にはほとんど登場することなく、ヨーロッパのプラントハンターらによってその見た目の珍しさと美しさが紹介され園芸業界で大ブームとなった植物とを、分けて考察する必要がある。既に述べたように、日本人商人による本格的な植物輸出の体制が整い、輸出量が増加していくのは明治23年(1890)前後である。それ以前に出荷されていた植物がジャポニスムに影響を与えていた可能性もあるが、むしろ美術工芸品によって「日本の植物」というイメージをすでに獲得した種類の需要が高まったという可能性も高い。つまり、美術のジャポニスムから園芸のジャポニスムへの波及効果である。その反対に、ユリに関してはそもそも日本では美術品のモティーフとなることが少なかったため、欧米における日本のユリの爆発的な人気を受けて、起立工商会社の工芸下図集にヤマユリやカノコユリ、オニユリといった多彩なユリが描かれるようになったと考えられる(注19)。そもそもユリは、西洋では聖母マリアの象徴であったにも関わらず、原産種はごく僅かで華やかさを欠く種類しか原生しないという背景があり、そこに登場した品種が豊富で美しい日本のユリが大量に消費され、日本イメージの代表的な花となった。実際、欧米でユリの需要が高まるのは、イースターやサンクスギビング(米)、クリスマスといった、キリスト教関係の祝祭日に人々が求めるためであることが報告されている(注20)。欧米の文化や宗教が引き金となって人気を得た植物ではあるが、特に花鳥風月というジャンルで西洋が好む“日本らしい意匠”を模索していた輸出工芸という分野にとっては、ユリはまさに“ジャポニスムの花”と同義であったと言えるだろう。― 470 ―― 470 ―
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