その他の服飾品や染織品によって、同時代の服飾史をも概観するという大規模な展覧会が開催された。特にパリでの展覧会を機に、研究が先行していた、フォルチュニの故郷であるスペインでの研究成果の共有が進むこととなった。日本の染織とその利用フォルチュニは、幼いころから目にしていた、中世以降のヨーロッパ、またアフリカ、中東、アジア由来の多種多様な染織品のデザインを作品のデザインに生かした。彼のコレクションは、両親から受け継いだ蒐集品が基盤となっている。フォルチュニの父マリアノ・フォルトゥニ・イ・マルサル(1838-1874)(注12)はカタロニア人の高名な画家で、ゴヤやエル・グレコなどに影響を受け、従軍画家として目にしたモロッコをはじめとする北アフリカの風俗を描いたことで知られる。母セシリア・デ・マドラソ(1846-1932)はスペイン王室とも近い芸術家の家系の生まれ(注13)であった。両親はともに、アフリカ、中東、極東などの工芸品の蒐集をおこなっていた。父のアトリエには、フランスやベルギーで制作されたと思われるタピスリーや、ヨーロッパやアフリカの武具、イスパノ・モレスク様式の陶器(注14)や絨毯、インドや中国など東洋の染織品もあり、父はそれらをモチーフとして用いていた。両親の収集品には、日本の鎧兜〔図2〕や、きもの(注15)〔図3〕などもあり、幼い頃からフォルチュニはそうした異国の品々に身近に接して育った。フォルチュニが3歳の時、父が36歳で病没し、母はフォルチュニとその姉を連れて、兄弟のいるパリへ移る。母はピアノに秀で、染織品を蒐集し、自邸では音楽家や作家が集う文芸サロンを開催していた。邸内に父の作品や蒐集品が溢れ、同時代の第一級の音楽や文学に触れることのできる文化的な環境は、フォルチュニ一家の1889年のヴェネツィア移住後も続く。1895年ころに撮影したとされるマルティネンゴ邸(Palazzo Martinengo)を撮影した写真には、長持の上に置かれた屏風状の日本の絵画(注16)〔図4〕などが見られる。フォルチュニは1907年頃、妻アンリエットとともに、ヴェネツィアの自邸で木製の版を用いた染めの実験を開始したとされる。早くも1909年にはプリーツや模様のプリントなど、染織技法の特許の申請を開始している。1910年に申請し、1911年に認可された特許の申請書「布、紙などへのプリント法」(注17)には、特許の書面上に、「ポショワール(pochoir)」によるプリント法には二種類あり、その一つは日本式であるとして、ごく短く型紙について紹介しており、日本の型染め技法の存在を知っていたことがわかる。そのごく短い記述(注18)からして、日本の型紙について完全に理解― 476 ―― 476 ―
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