④池大雅の文人画とは何か研 究 者:関西大学大学院 東アジア文化研究科 博士後期課程池大雅は、日本美術史において精彩を放ち、高く評価された。大雅は、非常に高い技術を示した画家であったため、「文人画の大成者」と呼ばれた。その様式変遷を辿ると、そこには中国の文人画の技法や画題が見出されるだけでなく、狩野派や琳派の表現方法さえ見られる。加えて、二十代から四十代までの作品を検討すると、多様な表現が見られるため、大雅の理解を深めるためには、「文人画」の概念を再検討すべきだと思われる。つまり、ある一定の文人画の枠組みに従って大雅の作風を理解するのが困難だからである。先行研究においては、技法の分析と歴史的な伝記についての研究が中心となっている。いくつかの単行書によって大雅の人生と作品が検討されるとともに、美術全集の短い解説や資料紹介がなされている。そのため、大雅の生涯にわたる様式全体についての論文はあまり執筆されていないと思われるが、それらの中では、大雅の二十代と三十代の様式を重視する吉沢忠氏の論文が注目される(注1)。とりわけ、大雅の作品群においては、二十代の作品に関わる原本(中国の『八種画譜』など)が明らかにされている。そのため、先行研究では、比較的研究しやすい二十代の作品の検討が多くなされてきた。しかし、大雅晩年の作品、特に四十代と五十代に描かれた作品が数多く残っているので、その検討が重要である。また、晩年の作品群においては、真贋の判定が困難となるものが多いために、研究が難しくなっている。大雅の作品の特徴を把握するためには、作品群全体を見通す視点が重要だと思われる。つまり、それぞれの作品についての解説の重要性は言うまでもないが、生涯にわたる全ての作品に見られる様式変遷を追うことが重要で、その両面を解明することによって初めて、大雅の全容が明らかになるのではなかろうか。さて、大雅の様式論を巡ると、岡倉天心が大雅の制作を「支那風」(注2)と名付けられて、後世者の研究には中国画風の影響が検討されていた。それとともに、二十世紀の六十⊖七十年代において、大雅研究の復活とともに、彼の絵画は「文人画」の定義によく結びつけられた。しかし、日本には、さまざまな研究者によって文人画の理解が異なり、「文人画」という概念の定義さえまだ統一されていない。すなわち、「文人画とは何か」ということを問えば、ある決まった中国絵画の様式、特に士大夫絵画の様式を重視する意見、あるいは南宗画の作風との類縁性についての主張が多い。さカラヴァエヴァ・ユリヤ(Karavajeva Julija)― 37 ―― 37 ―
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