年の第16回二科展では、古賀が《海》(東京国立近代美術蔵)〔図2〕、《鳥籠》(石橋財団蔵)、東郷青児が《Déclaration(超現実派風の散歩)》(東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館蔵)(注2)、阿部金剛が《Rien》(注3)、《Girleen》(所在不明)、中川紀元が《空中の感情と物理》(所在不明)〔図3〕と、それぞれこれまでの作風とは全く異なる「新傾向」の絵画を、おそらく示し合わせて一斉に発表した。美術ジャーナリズムによってセンセーショナルに取り上げられたこの「新傾向」には、翌30年以降、高井貞二や高田力蔵といった若手作家が加わった。これらの絵画動向は古賀、東郷、中川等が自称したこともあって日本における「超現実主義」の始まりと解釈されたり、また、バウハウスやピュリスム等の合理主義的な理念の受容が認められること、高層ビル、工場、飛行船、潜水艦といった機械文明をモティーフとしていることから、「機械主義」「メカニズム」の絵画という位置付けが与えられたりする(注4)。しかし、本研究が注目したのは、中川紀元が自らの考える「超現実主義」の技法を、「絵画のシネマ化」(注5)と呼んで映画と結びつけている点である。また、美術批評家の横川三果(毅一郎)も、第17回二科展(1930年)に発表された古賀の《女のまはり》(所在不明)〔図4〕の画面構造を、映画の「編輯」や「モンタージュ」の技法になぞらえ、同作の方法が「芸術に於けるリアリテイは写さるべきではなく、構成さるべきである」という映画の創造原理に近いものだとしている(注6)。古賀の1929年以後の一連の絵画は、速水豊が明らかにしたように、グラフ雑誌等から採取した既存のイメージを組み合わせて制作されている(注7)。ポップアートを先取りしたかのようなそうした制作方法は、それ以前の大正教養派的表現行為とは明らかに質的に異なっており、マスメディア社会を前提としなければ成立しないものである。古賀は中でも映画というメディアを、表象レベルでも、制作原理のレベルでも意識していたようだ。たとえば、《海》ではグロリア・スワンソン(注8)、《鳥籠》ではブリギッテ・ヘルム(注9)、《感傷の静脈》(1931年、石橋財団蔵)ではルイーズ・ブルックス(注10)といった、同時代の映画女優のイメージを引用しているらしいことがわかっている。先の《女のまはり》についても、画面右下に描かれた映写機からスクリーンに照射されたような歪んだ女性の頭部等は、明らかに映画のイメージを想起させる。また、古賀が同作に附した「肉体のレンズ。手の印刷機。X字型モンタージュ。」(注11)という改題詩も、印刷、写真、映画等の機械に基づく新興メディアを想起させる。二科会の前衛美術家たちを中心に1930年前後に盛り上がった「新傾向」の絵画は、少なくとも中川、古賀に関しては、映画等の当時の新興メディアの広がり― 487 ―― 487 ―
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