鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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らに、広い定義による「文人画」の定義、すなわち「文人の交流によって生まれた共同制作」という意味、加えて、「中国文化に基づく知的背景を含む日本の文化人の絵画」や「精神の様式」という定義もみられる。2019年に大分県立美術館で展示されたコレクション展には「大分の文人画」という展示で、田能村竹田の文人画が紹介されていたが、竹田の弟子による美人画など、通常、文人画に属していないジャンルの作品も紹介されていた。そうした紹介は、文人画の概念とその理解の曖昧さを示していると思われる。さらに、「文人画」については、二十世紀後半には、日本の文人画(南画)について、「南画」と「文人画」のどちらを用いるべきかという複雑な議論が現れたこともあって、多少とも理解しにくい大雅論へ向かうことにもなった。なお、社会的立場という観点では、大雅は、中国士大夫とは異なり、職業画家であった。さらに彼は、山中に住む隠遁者ではなく、京都に住む町絵師であり、中国文化を学びつつ南宗画の技法を試みていた。大雅の作品には中国画家の名品に倣って描かれた作品も多いにも拘わらず、南宗画の技法から離れた《日本十二景図》のような作品も遺存している。すなわち彼は、広い好奇心を持ち、様々な様式と手法を試して、自己の世界観を広げた。その意味で大雅は「文化人」であったに違いないが、その制作は、狭い南宗画にはぴったりと当て嵌まらない。続いて、かなり広い「文人画」の定義は、佐々木剛三氏、佐々木丞平氏、水谷慶氏などによって支持され、彼らの解説においては、大雅の制作における表現の自由ということが重視される。例えば、佐々木剛三氏によれば、「文人画のこういう特性、非常に振幅が広くて写実的な風景画のようなものから極端に簡略化されたものまで、自由な表現をとることが出来、そしてその表現は内なる意によって定まるものである」。従って、「こういう特性は必然的には極めて自由な画が可能となる」(注3)。また、「文化とは様式であるとしたが、様式というものが歴史性あるいは時代性というもので限定されるならば、それらに限定されない様式をもつものであり、もし凍結されない文化というものがあるとしたら、それは文人画、すなわち精神の様式であろう」(注4)。大雅は、様々な技法を混在させて、独自の作品制作を目指したという意味で自由な作品を制作した。そして、彼の藝術的表現に関わることであるが、特に描かれた人物の姿は、奇妙であるという意見が伝えられており、大雅夫妻についての話も『近世逸人画史』に含まれている(注5)。従って大雅は、島田修二郎氏の「文人」に類似した性格の持ち主だったといってよい。つまり、彼は宋代以降の趣味的な色彩の濃い人間類型に似た人物だと思われる。とりわけ大雅は、中国の士大夫のような教養人であったとはいえない。それよりも彼は、藝術的才能をもち、藝術的な直感によってさまざまな対象にアプローチしたと推― 38 ―― 38 ―

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