(II)1937年前後─写真と絵画の交錯─による新たなメディア環境を意識した成果であったことが指摘できるだろう。第2の重要な動向として、1930年前後に、やはり映画メディアの方法に触発され、文学、美術、写真等々のジャンルを横断して同時多発的に広がった、雑誌・書籍等の紙面における実験的な視覚表現があげられる。雑誌や書籍といった印刷物は、絵画のように1つの画面で内容が完結するのではなく、複数頁を用いて連続するメッセージを伝達することが可能であるため、個別に撮影されたフィルムの断片をつなぎ合わせて意識的に映像を編集する映画の方法論と親近性がある。中でも、当時隆盛した新興写真運動の代表的写真家である堀野正雄によるグラフ・モンタージュ〔図5〕は、写真を用いた技法ではありながら、同一画面にイメージを集約させるフォト・モンタージュよりも、シークェンスをつなぐことでメッセージを伝達する映画のモンタージュに近い形式として注目される。堀野は、村山知義、板垣鷹穂等のさまざまな分野の知識人たちとコラボレーションしたグラフ・モンタージュ作品(注12)を、雑誌『犯罪化学』を中心に発表した。その他、恩地孝四郎の出版創作『飛行官能』(版画莊、1934年)も、詩・写真・版画といった異なる要素をモンタージュする点や、詩に当時流行していたシネ・ポエムのようなノンブルを附している点に、映画メディアへの意識が認められる。また、『飛行官能』と同じくシネ・ポエム形式を踏襲して編まれた小石清の写真集『初夏神経』(浪華写真倶楽部、1933年)も、同系列の実践と位置付けられる。いずれも、絵画という手工的なメディアを用いた先の古賀等とは異なり、表現手段においても写真製版や印刷複製といった機械的なメディアを前提としており、グラフ・ジャーナリズムが成立したこの時期でなくては不可能な表現だったと言えよう。「写真・映画の「影響」」という観点で日本の前衛美術の動向を概観した場合に、次に重要な時期は1937年前後である。この時期に注目すべき動向が集中している理由は、メディア史上の重要な出来事があったためではなく、単にこの時期が昭和戦前期における前衛美術の最盛期に当たっているためである。第1の注目すべき動向として、美術家たちが写真というメディアを自らの表現手段とし始め、写真表現が「美術」に含まれるようになったことがあげられる。この流れを切り拓いたのは1936年に自作のフォトグラム作品を携えて郷里宮崎から上京した瑛九と、それらの作品を評価して瑛九が世に出るきっかけを提供した長谷川三郎、外山卯三郎であろう。瑛九は1930年前後の新興写真運動全盛期にオリエンタル写真学校で― 488 ―― 488 ―
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