鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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写真を学び、当時すでに本名の杉田秀夫名で『フォトタイムス』誌等においてフォトグラム作品を発表していた。しかし、1936年以後は、「フォトグラムという其のころの日本写真界の議論にしたがいたくない」(注13)という考えのもと写真表現を美術界の文脈に結び付けようとし、そのような瑛九の意図を十全に汲んだ長谷川と外山は、瑛九のフォトグラム限定の「フォト・デッサン」(「絵画の写真」の意)という名称を共に創出した。瑛九は同年、紀伊國屋画廊他で「瑛九フォト・デッサン個展」を開催し、また、外山が主催する芸術学研究会から『眠りの理由 瑛九氏フォート・デッサン作品集』(限定40部)〔図6〕を刊行、翌1937年には、長谷川と共に自由美術家協会結成にも参加している。そして、この自由美術家協会には「フォトプラステイク」(注14)という出品区分が設けられ、名古屋を中心に活動し、『造型写真』等の理論書もある坂田稔や、瑛九と同郷の写真家である北尾淳一郎、私家版『メセム属 超現実主義写真集』(1940年)で知られ、絵画作品も制作していた下郷羊雄等により、多くの写真作品が発表された。長谷川三郎も、1938年の中国大陸への旅行を契機として写真を表現手段化するようになり、自由美術展に《郷土誌》シリーズ(1939年、個人蔵)、《室内》シリーズ(1940年)〔図7〕といった組写真を発表している。以上とは別の流れとして、1938年に写真雑誌『フォトタイムス』の後援により瀧口修造、永田一脩、奈良原弘を中心に結成された前衛写真協会(1939年、写真造形研究会に改称)の活動がある。同会には阿部展也、今井滋、森堯之といった美術家たちが数多く参加、主にシュルレアリスム的とみなされるような表現を追求し、写真史上「前衛写真」と呼ばれるムーブメントを形成した。また、同会の理論的・精神的支柱であった瀧口はこの時期、重要な写真論を集中的に発表している。第2の注目すべき動向として、写真的な視覚イメージや、インデックス的と言われるような写真の特性を取り込んだ造形表現の増加があげられる。その代表例は吉原治良の絵画作品である。大阪中之島美術館準備室が所蔵する吉原のアーカイブズには、彼が1930年代に撮影した膨大なネガフィルムが含まれているが、『九室』2号(1940年)に掲載された《作品》というプリントを除くと、それらの写真はほとんど作品としては発表されていない。吉原が表現メディアとしての写真にはそれほど関心が持たなかったことを窺わせる。その一方で同時期の吉原の絵画作品には、尾崎信一郎が指摘しているように、自ら撮影した写真や海外雑誌・書籍に掲載された写真図版に基づくイメージが確認されている。尾崎はこの点について、戦前期の吉原の関心が「写真というフィルターを介すことによってヴィジョンが被る変形」(注15)に向けられていたのではないかとの重要な指摘をしているが、この場合の「変形」とは、《帆柱》〔図― 489 ―― 489 ―

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