ん中国に渡ったことはないが、杭州の西湖を何度も描いている。一方、大雅が描いた西湖は、現実の西湖のイメージから完全に逸れているとはいえない。というのも、ここでは現実から離れて激しく奇形となる形態は見えず、西湖の実際の景色では見つからない対象は、大雅の画面には現れていない。それとともに、大雅による西湖の山水図は、写実的とはいえず、画家の想像と理想を通じて生み出されたイメージである。大雅は、中国の絵画に従ってそれを見ながら西湖を描いたと思われるが、いうまでもなく、ある程度は想像的な山水を描いたわけである。また、西湖の景色を実感するために、大雅は、琵琶湖へと旅をし、湖を漂う波の動きを研究したことはよく知られている。そうだとすれば、大雅は、中国の原本に倣った西湖の風景、つまり、想像によって作られた西湖の図様、また、実際に見た琵琶湖の景観を一つの画面に重ねたわけである。その意味で、大雅の山水図は、幾つかのレベルの違う複数の層を含んだ総合的風景だといってよい。大雅山水と比べると、中国の文人画に表現される西湖の山水図はもっと単純である。中谷伸生氏は、「文人画独自の性格を、とりあえず〈想像力によって構成された背後の知的な枠組〉という言い方でまとめておきたい」と指摘した(注8)。すなわち、中国文人画家の山水図には、二つの層が見られる。特に目の前の実際の風景と知的な構成を、一つのイメージとして組み合わせているわけである。言い換えれば、中国の文人画家の山水図は、理想的なイメージが知的背景の一部になっている。それとは異なって、大雅は、中国文化についての教育を受けたにも拘わらず、中国の風景と直接関係する図様を組み立てることはなかった。それと共に大雅は、中国の画譜や絵画の模写という枠組みを超えた画家であり、自己の旅の印象と想像によって、個性的な山水図を描いた。従って、大雅の人生において旅は、重要な役割を果たしたに違いない。例えば大雅は、九州の自性寺に泊まって、宗教的訓練と藝術的活動を組み合わせたと伝えられる。中国の文人画にとっても、旅の概念は重要であったという。つまり、「明の末の董其昌になると、内面精神の充実が肝要なのだから、よい画を描くには『万巻ノ書ヲ読ミ、万里ノ道ヲ往ク』ことが必要だ」という(注9)。その意味で大雅は、多くの旅をし、長崎から日本に流入した文人画に関わる書を読んでいる。特に飯島勇氏によれば、「伊孚九の名を大にしたのは、大雅がこれに私淑したからで、『伊孚九池大雅画譜』も世に行なわれており、その点伊孚九は、思わぬ拾いものをしたといってよいだろう。伊孚九に張秋谷、費漢源、江稼圃を併せて来航の四大家の呼称がある」(注10)。同時に大雅は、自己の理想と日本の絵画の技法を用いたため、中国の文人画と同様の作品を描く必要がなかった。2018年12月に中国の上海博物館で開催された董其昌とその画壇をめぐる展覧会に― 40 ―― 40 ―
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