船図屏風」の依頼者と制作者、制作意図や使用目的を解明する糸口を探る。2.朱印船が描かれた船絵馬朱印船を主題にした絵画として、「茶屋船交趾渡航貿易絵巻」(情妙寺所蔵)や「朱印船交趾渡航図巻」(九州国立博物館所蔵)の絵巻物が挙げられるが、本屏風と図像的に近く、同時代性を反映していると考えられるのは、朱印船の船主たちが寺社に奉納した船絵馬である。朱印船の船絵馬は以下の6面の存在が確認されているが、奉納の願文より寛永4年(1627)から同11年(1634)にかけて制作されたものであることが判明している。①「末吉船絵馬」寛永4年(1627)杭全神社所蔵〔図2左〕②木村嘉兵衛門筆「渡海船図(末吉船)」寛永9年(1632)清水寺所蔵〔図3左〕③木村嘉兵衛門筆「渡海船図(末吉船)」寛永10年(1633)清水寺所蔵〔図3右〕④北村忠兵衛筆「渡海船図(末吉船)」寛永11年(1634)清水寺所蔵〔図4〕⑤「渡海船図(角倉船)」寛永11年(1634)清水寺所蔵〔図2右〕⑥「御朱印船絵馬(末次船絵馬)」寛永11年(1634)清水寺(長崎市)所蔵朱印船貿易は豊臣秀吉の為政時に始まり、幕府開府後に徳川家康は慶長9年(1604)に朱印船制度を実施した。しかし朱印状の偽造が横行し、寛永5年(1628)にシャムでスペイン船により朱印船が焼打ちされた事件が勃発したことが契機となり、寛永8年(1631)に奉書船制度が開始され、朱印船には朱印状に加えて老中の奉書が必要となった。さらに寛永10年(1633)には奉書船以外の渡航が禁じられ、寛永12年(1935)にすべての日本人の海外渡航と帰国が全面的に禁止され、朱印船貿易は終末を迎えた。④⑤⑥は、朱印船貿易が禁止される前年に制作された船絵馬ということになる。上記のうち、⑥の「末次船絵馬」は、長崎の豪商末次平蔵(?~1630)が清水寺に奉納した絵馬である。経年劣化により人物像の細部まで確認し難いが、「清水寺末次船絵馬下絵」(長崎歴史文化博物館所蔵)を見ると、船上にいる20人余りの人物はすべて髷を結っている日本人であることがわかる。南蛮屏風ではマストのロープで働いている水夫たち全員が南蛮人であるが、本図においても網代帆の上にいる二人の水夫は髷を結っている日本人である。長崎清水寺本「末次船絵馬」は風俗画的な人物描写を排除し、船体そのものを綿密に記録する写実性を重視した船舶画に近い。したがって、本論では風俗画的表現に重点が置かれている①~⑤の船絵馬に着目する。― 509 ―― 509 ―
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