鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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3.朱印船として唐船が描かれた船絵馬─「末吉船絵馬」と「渡海船図(角倉船)」朱印船には船長、航海士(按針)、水夫などの船員と客商(商人)が乗船するのが一般的であったようだ。航海士は磁針を読み、天体を測定して航海をつかさどる責任者であり経験を要するため、朱印船の航海においても中国人、ポルトガル人、スペイン人、オランダ人、イギリス人に委託されていた(注2)。慶長17年(1612)に禁教令が出され、元和2年(1616)には中国船以外の外国船の入港を長崎と平戸に制限されたが、朱印船上に南蛮人の船員や客商が描かれていても不思議ではない。①から④は徳川幕府より朱印状が交付された大坂平野郷の豪商、末吉孫左衛門(1570~1617)が杭全神社と清水寺に、⑤は京都の角倉了以(1554~1614)の子で家督を相続した息子の玄之(素庵、1571~1632)が清水寺に奉納した絵馬である。寛永4年(1627)に奉納された一番古い①の杭全神社本「末吉船絵馬」は、朱印船の帰国に合わせて奉納されたと考えられている(注3)。しかし、絵馬に描かれている船体は白い唐船で実際に南洋を航海した朱印船でないことは明らかであり、狩野孝信が描いた「唐船・南蛮船図屏風」(九州国立博物館所蔵)や「唐船図屏風(腰屏風)」(日光東照宮所蔵)の流れを汲むものである。唐船の白船は海の彼方より財福をもたらす宝船の象徴として捉えられ(注4)、航海の成功はすなわち朱印船が宝船に化したことを意味する。唐船の上には宝物として複数の陶磁器が描かれている。二本の網代帆は折り畳まれ、帆布も閉じていることから、帰港が近いことを示唆している。船楼には船主と近くに侍る禿、そして二人の従者が控え、甲板には南蛮人二人が三人の武士とともに座り、日本に無事帰還できたことに安堵してか、皆で和やかに談笑している。舳先と艫に南蛮人と日本人の船員の見張りを配し、網代帆を境にして左方の一団のうち二人は随分と酒に酔っており、その向かいに座っている髷を立てた若衆二人がその様子を苦笑しながら見ているようである。酔っ払いの姿態は中世の絵巻物にしばしば見受けられ、画家の粉本学習の成果が表れているとも言え、やはり狩野孝信系の絵師が本絵馬の制作に携わっていたものと考えられる。剥落が激しいが金箔で金雲が表現され、着物にも細やかな金泥の模様を入れ、細部にわたり手の込んだ描写がなされていることがよくわかる。①杭全神社本「末吉船絵馬」は船主らしき人物と南蛮人の交易に関する対話場面が中心であり、享楽性が増す以前のシンプルで品のある船絵馬である。①杭全神社本「末吉船絵馬」の7年後に描かれた ⑤「渡海船図(角倉船)」は、船体が同じ唐船でも見張台が設置され、船楼は拡張されて装飾性が加えられた豪奢な造りへと変化している。船絵馬の大きさが巨大化したことで唐船も巨船化し、船上には― 510 ―― 510 ―

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