なぜか若衆が漢籍らしき書物を苦労しながら読んでおり、その姿を船主もしくはこの室内に出入りすることが許されている人物が眺めている。隣の部屋では髷を結ってもらっている武士が描かれている。いずれの場面も「朱印船図屏風」にも他の船絵馬にも描かれていない。長い船旅から帰京できる喜びからか、船楼の内外において個々が好きなことをし、自由な時間を楽しんでいるようである。②と③は同じ筆者であるが、人物描写は随分と異なることがわかる。一方、「手を握り合い佇んでいる若衆と念者二人の姿」は、④北村忠兵衛筆「渡海船図(末吉船)」の画面中央に堂々と描かれており、他の船絵馬には描かれていない特異な図像である〔図6〕。しかし、「朱印船図屏風」と船絵馬②③⑤に描かれている若衆踊りが本図には描かれていない。甲板の中央部には「向かい合って三味線を弾く二人の若衆」、「カードゲームに興じる船員たちと若衆、それを背後から覗く琵琶柄の粋な着物を着ている武士」、そしてなぜか「鶏を抱えて立っている若衆」が描かれている。通常、鼓や三味線は若衆の踊りのために演奏されるが、本図には肝心の若衆踊りが排除されているため、若衆二人がただ三味線を弾き合っている。画面右手の下方に若衆と武士のカップルが描かれているが、若衆の髪型や表情が艶っぽい。この二人の姿は『扁額軌範』二篇附録に取り上げられている(注6)〔図7〕。本船絵馬では男性同士の妖艶な姿が強調され、船主の視線は船上で繰り広げられている光景を冷めた目で眺めているようである。筆者の北村忠兵衛が描く人物の目や顔の表情のせいか、個々の人物の視線は交錯しておらず、どこか乾いた退廃的な気分が漂っている。また④には網代帆上の水夫以外に南蛮人は存在せず、甲板上には日本人のみが描かれている。北村忠兵衛の ④「渡海船図(末吉船)」は、同じ末吉家が清水寺に奉納した②③の絵馬とは内容が大きく異なり、船上遊楽図から衆道的世界に主題が移行したかのようである。世情として寛永6年(1629)10月に女歌舞伎が禁止され、その後若衆歌舞伎が盛行するが、この動向と忠兵衛の船絵馬の図像が無関係であるとは考え難い。しかしながら、忠兵衛が④「渡海船図(末吉船)」を一から創り上げたわけではなく、画面の中心となる「手を握り合い佇んでいる若衆と念者二人の姿」は「朱印船図屏風」の図像を写し、そして周囲の人物を描き加えて画面を再構築したものと考える。旗の種類もほぼ同じで、船体の形も一番近く、「向かい合って三味線を弾く二人の若衆」は「朱印船図屏風」の右隻の若衆が踊るのために演奏している二人であり、また左隻にミミズクの図柄の着物を着る人物や派手な幾何学模様の着物を着て太鼓をたたいている人物がいるが、④「渡海船図(末吉船)」では手を繋ぎ合っている後ろの若衆がこれと酷似する派手な着物を着ており、、北村忠兵衛が本屏風を手本にしていた― 512 ―― 512 ―
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