ことは明白である〔図8、9〕。5.フィラデルフィア美術館所蔵「朱印船図屏風」の制作時期と制作意図時代の流れや政情の変化に呼応して、南蛮屏風の図様は変容していく。画面から南蛮寺や宣教師などキリスト教に関わるモチーフは排除され、商売繁盛や航海安全を願う縁起ものとして新たな発展を遂げる。寛永期には海運に携わる新興富裕層や商工業者層の財福希求を強く前面に打ち出した「南蛮人交易図」が登場するのである(注6)。まさに朱印船貿易が行われている時期に「南蛮人交易図」が成立したことになる。「朱印船図屏風」に先行する作例として「南蛮人交易図屏風」(埼玉県立歴史と民俗の博物館所蔵)が挙げられる。本屏風の左隻にガレオン型とナウ型の南蛮船二隻が描かれているが、南蛮船にもかかわらず甲板の上には東洋風の屋倉があり、「朱印船図屏風」の船体の祖型のようである。つまり、埼玉県立歴史と民俗の博物館本「南蛮人交易図屏風」が登場して間もなく、「朱印船図屏風」が制作された可能性が考えられる。「南蛮人交易図屏風」は遺品数の多さから需要も高く積極的に制作されたことが窺えるが、「朱印船図屏風」は本作品一件しか遺されていないことから、新興富裕者層に流通したものではなく、発注者の求めに応じて特別に作られた屏風だったと考えられる。筆者は狩野派の絵師と推定されるが、人物の顔は孝信系とは異なり、どちらかというと光信系に近いように見受けられる。発注者、あるいは本屏風の関係者を推測する手掛かりになるのが、屋形の中にいる船主である。左隻の屋形の前で禿を侍らせ、かいらぎ鞘の太刀を差している大名風の人物が座っているが、彼は九曜紋を大きくした意匠の着物を着ている。九曜紋は細川忠興(1563~1646)の家紋である。(しかしながら、着物の肩の部分の模様は丸が一つ足りず、九曜紋になっていない)忠興は慶長16年(1611)正月11日付の暹羅渡航朱印状を得て、細川船はシャムに向けて航海したが、同船は暴風のため安南国に漂着し、その地方の統治者の華郡公の厚意により同船は日本に送還されたということである。遭難の打撃により、その後忠興は朱印船貿易に主動的に関与することから退いたと推測されている(注7)。本屏風の発注者が忠興に関係すると仮定すると、実現しなかったシャムへ行きの航海を絵画で再現したとは考えられないだろうか。また、この船主が細川忠興でなくとも、朱印船貿易を推進した大名か武家の有力者だろう。命と引き換えの航海に発注者が同行することは叶わず、本屏風を鑑賞することで朱印船での航海を追体験して、船旅や異国の地に思いを馳せ楽しんだのではないか。死と表裏一体の航海は生死の境界線を彷徨う旅で― 513 ―― 513 ―
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