ある。だからこそ命ある時に目の前の悦楽を精一杯享受しようとしたとも解釈できる。両隻ともに若衆踊りと手を握り合った念者と若衆の姿が描かれ、衆道の世界を表している。船主の横には禿が描かれているものの、実際に女人が朱印船に同乗することは考えられず、危険を伴う長い船旅は男の世界であり、武士道にも通ずる衆道的世界観とその美意識が盛り込まれながら、刹那的愉楽が強調された風俗画として描かれたのかもしれない。とは言え、なぜこの図像が描かれているのか。右隻は背の高い若衆が後ろから武士の念者の手を握っており、左隻はその逆で、背の高い武士が後ろに立って若衆の手を握っている。このように右隻と左隻で若衆と念者の立ち位置を入れ替えることに何か意味があるのだろうか。ところで、① 杭全神社本「末吉船絵馬」から清水寺本船絵馬は極端に巨大化している。屏風のスケール感を船絵馬にもたせる意図があったようで、まるでタブローのようである。清水寺の絵馬堂が絵馬の展示空間となり、参拝客に見られることが意識されただろうが、少なからずこの「朱印船図屏風」や南蛮屏風の盛行が影響を与えたと考えられる。以上より、寛永4年に①杭全神社本「末吉船絵馬」の完成以降に「朱印船図屏風」が制作されたと考えられ、本屏風の影響を受けて狩野派で学んだ町絵師の木村嘉兵衛門が②③「渡海船図(末吉船)」を制作し、さらに北村忠兵衛は本屏風の直接的影響を受け、部分的に図像を借用しながら衆道的世界を増幅させて、寛永11年に④「渡海船図(末吉船)」を完成させた。清水寺の②③④の三つの朱印船図絵馬は、フィラデルフィア本「朱印船図屏風」のような作品が介在したからこそ成立したものと考える。6.今後の研究課題フィラデルフィア美術館本「朱印船図屏風」との関連図像を探るために、船絵馬の調査から始めた。そして寛永11年(1634)の同じ年に制作された二つの朱印船絵馬は、性格が全く異なる絵画であることがよくわかった。④北村忠兵衛筆「渡海船図(末吉船)」には交易や交歓の楽しさは微塵も感じられず、衆道の世界に関心が移っている。一方の⑤「渡海船図(角倉船)」は船絵馬の枠を超え、南蛮屏風のコンテクスト上の風俗図として捉えてもピークに達した作品である。以降にこのような船舶風俗図は出現しておらず、まさしく角倉の船絵馬が朱印船貿易の終焉を告げているかのようである。「朱印船図屏風」の成立を寛永4年(1627)の①杭全神社本「末吉船絵馬」の制作以降と判断したが、この小ぶりな絵馬自体が図像的には「南蛮交易図」の船の― 514 ―― 514 ―
元のページ ../index.html#526