鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
53/643

は、中国文人画の発展する過程が紹介された。その展示においては、小さな画面に緻密な風景を写す作品が数多く見られた。しかし、大雅の藝術を考えるなら、《山亭画雅会図》の金箔を含む大きな襖、または《楼閣山水図》の金地著色の屏風は、董其昌による絵画の表現とは異なっている。特に大雅の作品は、巧みな色彩の布置、そして、大画面による描写、さらに、自由な画題の選択など、独自の構成によって際立っている。さらに、米点の技法と隠遁者のモチーフが、大雅の画面においては、中国の文人画の影響を受けており、大雅の絵画に超俗的な雰囲気を与えたようである。水谷慶氏によれば、「ごく通俗的な理解でいくと、文人画というのはむしろそういう技術主義と非常に対照的な位置にあるものとしてとらえられていた」(注11)。しかし、大雅は様々な技法を試みたため、技術的な側面を重視したようである。つまり大雅は、才能ある人物であり、成功した作品においては、想像力あふれる表現と巧みな技術を組み合わせたといってよい。中国の文人画と大雅の作品を比較検討すると、その表現には相違点が多いことに注目すべきである。飯島勇氏によれば、「(日本文人画は)南宗画即文人画という風に考えず、かなり自由な歩み方をして来た。そしてこのような考え方は、大雅、蕪村の時代において決してあらたまったわけではなく、ある意味においては、一層自由に振るまったともみられる」(注12)。つまり大雅は、江戸時代の自由な文人画の様式を感覚的に受け取った。あるいは「初期文人画においては、また中国文人画の正体がはっきりつかめず、暗中模索のまま、あたらしく中国から伝来したものであれば、何の批判も加えず、うのみにするという傾向であった」という(注13)。そうだとすれば、なぜ池大雅が文人画の大成者と呼ばれるようになったのか。その問題については、中谷伸生氏によると、「これまでの研究では、文人画派や狩野派、そして四条派という流派の枠を超えて、すなわち、江戸時代のあらゆる絵画の中で、作品の良し悪しという質による絶対評価がなされたからである」(注14)。言い換えれば、大雅の高い技術的な能力が大成者と位置づけるのに影響を与えたということなる。あるいは、「文人画家という前提のもとに、大雅の人生と人柄、そしてその中国趣味や文人趣味を詳しく論じつつも、いざ作品評価となると、狩野派や四条派の絵画を評価するのと大して変わらない造形力に沿った評価に落ち着きがちであったように思われる。つまり、結果として作品自体と実人生とを分断した研究が多かったのではなかろうか」(注15)。言うまでもなく、大雅の技術的な能力は魅力的である。大雅は、隠遁者などの文人画的モチーフを描き、南宗画の技法を採用したに違いない。しかし彼は、中国の南宗画だけではなく、日本の絵画の様々な技法を用いて、才気あふれる実験的作品をも描いた。― 41 ―― 41 ―

元のページ  ../index.html#53

このブックを見る