鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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平和記念公園が整備された現在は街の面影を知ることは難しい。中島本町の旧住民は、平和記念公園内に《平和乃観音》〔図1〕を建立し、中島平和観音会を結成し、原爆犠牲者の法要を行ってきた。この法要を通じて平和観音会は、原爆によって消滅した街の記憶の継承を行ってきた。平和記念公園が整備されることで中島本町が消滅することが決定したことで、中島本町の町内会は、町があった場所が忘れられることがないように記念碑を建立することを決定した。町内会の役員によって、どのような形状の碑にするのか検討した結果、亡くなった町民の供養のため宗派を問わず信仰されている観音像を建立することに決定した。しかし観音像は宗教的な意味がある造形であることから、市議会議員から反対意見が出された。結果として広島市長であった渡辺忠雄が、観音像は「芸術作品」であると主張したことで、平和記念公園に観音像を設置すること許可された(注3)。渡辺は、中島本町が平和記念公園として整備されることを念頭におき、公園にふさわしい平和を象徴する彫刻作品として《平和乃観音》を捉え、台座に「中島本町の跡」と刻んだ。1956年、広島市が後援するかたちで旧中島本町の住民によって、消えゆく町の記録を残すモニュメントとして《平和乃観音》は建立された(注4)。台座を含め約3メートルの観音像は目立つ存在であり、中島本町という町の存在を強く印象づけるものであった。《平和乃観音》は、高岡銅器の原型師であった荒井秀山によって制作されたものである。荒井は、射水郡横田村(現、高岡市)に生まれた。富山県立工芸学校で、大塚楽堂から彫塑を学んだ後、銅像の原型師として仕事を行なっていた(注5)。高岡の鋳造技術が高くない時代には、鋳造した銅像や銅器の仕上師としても活躍していた(注6)。1928年頃、荒井が原型を担当した「二宮金次郎」が鋳造されると、細部まで良く出来た像は売れ筋商品となった(注7)。高岡を代表する原型師のひとりであったが、金属供出によって殆どの銅像が失われている。《平和乃観音》は、人物像を得意とした荒井らしく人体描写を基本としている。仏像としては短い手の身体表現は、子供の写実に基づく造像も伺える。一方で宝冠や装飾、衣の表現は鎌倉期の観音像から学んだものと予想される。《平和乃観音》は量産されたものではなく、荒井の手によって仕上げられた1点物の観音像であるため、荒井の作風を知る上でも重要な作品である(注8)。《平和乃観音》は、殆ど作品が残されていない荒井について知ることができる重要な彫刻である。また約2mの八角柱状の御影石制の台座の上に安置されているなど、近代的なモニュメントの姿で平和記念― 520 ―― 520 ―

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