鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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公園内に設置されており、《平和乃観音》を「芸術作品」と評価した渡辺市長の言葉は方便ではないだろう。芸術作品であると同時に《平和乃観音》は祈りの対象でもあった。中島平和観音会の前会長は「焼け野原に土を盛って造成した平和記念公園の下に、家族の骨が埋まっているという意識を常にもっている」と述べている(注9)。《平和乃観音》は遺骨との関係の中で、墓参りをする場所という認識が生まれ、観音像の前には墓地に設置されるもと同様の花立てや香炉が設置された。《平和乃観音》は、亡くなった住民の遺骨に寄り添う「供養のための仏像」であると同時に、「消えゆく町のモニュメント」という2つの意味をもったのである。1960年代の後半になると緑に囲まれた平和記念公園が市民に定着した。一方、原爆で壊滅した中島本町の痕跡は殆ど消えていいた。だが中島平和観音会では毎年慰霊祭を行うことで、子供や孫に原爆投下以前の街の様子を語り継いできた。原爆死者供養の祈りのため、早い時期に建立された《平和乃観音像》は、慰霊祭によって旧住民の紐帯を強固なものとし、記憶の風化を防いだのである。2.長崎市「平和公園」の《聖観世音》長崎市の平和公園と言えば、彫刻家の北村西望によって制作された《平和祈念像》の姿を思い出す者も多いだろう。だが同時期に、同じ関係者によって発願された《聖観世音》〔図2〕が平和公園の納骨施設に安置されていることはあまり知られてない。長崎のシンボルとなった巨大なモニュメントである《平和祈念像》だけでなく、原爆死者の慰霊のために《聖観世音》もまた平和公園に設置された。1945年8月9日、長崎市の浦上に原子爆弾は投下された。爆心地は壊滅的な被害をうけ、広島同様に多数の命が奪われた。爆心地を公園として整備すること決まったころ、北村から《平和祈念像》の構想が提案された。税金を使って制作される巨大な像に対して長崎市議会からも批判があった。だが東京で活躍し、既に著名であった北村に一切無条件で依頼することが決定した。北村西望は、長崎県南高来郡南有馬村(現、南島原市)に生まれた。東京美術学校で学び、兵役除隊後、本格的に制作活動の道へ進み、戦時期には大型で力強い軍人像が高く評価された。長崎市の記念碑建立計画を知った北村は、自身が最も得意とする男性の裸体像によって、原爆という強烈なものに対抗する「強烈な印象を与える」像を制作することを提案した(注10)。こうして多額の費用をかけ、1955年8月9日、《平和祈念像》は除幕された。― 521 ―― 521 ―

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