鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
534/643

東京で活動していた北村は、長崎県出身とはいえ原爆を体験していないこともあり、原爆死者の慰霊を強く意識することなく、自身の作風を反映した「時に神、時に佛」となる「人類最高の希望の象徴」を表現した像を完成させた。類例のない造形物は、強烈な印象を与えるもので、長崎への原爆投下を想起させる存在として広く知られた。だが《平和祈念像》に対して地域の人々からは批判的な意見が多く寄せられ続けた。特定の宗教的文脈によって認識できない造形物が、祈りの対象となることは困難であった。《平和祈念像》は観光資源として定着したが、北村が望んだ神や佛のような「祈りの対象」としては認識されなかった。当初、《平和祈念像》の台座部分は、納骨所になる予定であった。しかし像が大きくなりすぎたため、納骨するスペースを確保出来なくなった。このような理由から長崎市では新たに納骨慰霊施設を建設することとなった。1958年3月、《平和祈念像》の西側、数百メートルの場所に「長崎市原子爆弾死没者慰霊納骨堂」が完成した。納骨施設の建設計画は、長崎市民生委員協議会、原爆被災者協議会、長崎市の三者で進められた。そして慰霊施設であることから礼拝の対象となる像を設置することになり、識者の意見も聞いた結果、死者供養に最も因縁の深いのは仏教であることから、納骨施設の本尊として観音像を祀る事が決定した(注11)。《平和祈念像》が完成した約1年後に《聖観世音》が発願されたことになる。納骨堂の建設に先立ち、観音像の制作のために、民生委員が中心となり寄附を呼びかけ、広く市民から90万円の浄財が集められた。そして仏師、杉野慶雲によって木製の観音像原型の制作が開始された。杉野は長崎市内で多くの仕事を手がけた仏師である。杉野は、4歳から熊本の仏師に入門し、修行を行ってきた。熊本で仏師として独り立ちした後の1926年、仕事を求め長崎市に移り住んだ。愛宕町に工房をもうけ、鍛冶屋町に仏壇店を開き商売を行なっていた。1945年8月9日、作業中であった杉野自身も被爆したが、壊れた仏像の修復などの仕事をすぐに再開している。1957年8月、ブロンズ製の《聖観世音》が完成し、納骨堂の建物が完成するまでの間、市民の参拝に便利な場所ということで、平和公園西側の児童公園に仮安置された。《聖観世音》は、等身大よりやや大きい2メートルほどの像で、全体のプロポーションは、近世仏師の流れを感じさせるものである。だが条帛や瓔珞は、薬師寺東院堂の《聖観音菩薩》を細部まで模倣している。近代的な美意識を反映した仏像の情報は、奈良の美術院において新納忠之介のもと古仏の修復を行なっていた異父弟の白石宗雄と白石義雄からもたらされたものかもしれない(注12)。13回忌の供養という仏教的供養の意味も考えられるが、《聖観世音》の発起人の殆― 522 ―― 522 ―

元のページ  ../index.html#534

このブックを見る