どは《平和祈念像》建設の関わった人物である為、死者を慰霊する存在として《聖観世音》が発願された背景には《平和祈念像》では慰霊には不十分という考えがあったものと考えられる。《聖観世音》は原爆によって亡くなった死者を供養する納骨堂の本尊として、毎月、長崎市仏教連合会によって毎月9日の月命日には法要が続けられた。しかし1990年代になり、長崎市の施設である納骨堂に本尊として《聖観世音》を象徴的な形で設置することが問題となった。平和公園の駐車場工事にあわせて納骨堂の建て替えを行った長崎市は、《聖観世音》を納骨室裏の人気のない場所へ移動した。現在、《聖観世音》は、平和公園からは全く見ることができない。長崎市の《聖観世音》は、杉野慶雲のような仏師によって制作された像であったため美術的な価値を評価されることはあまりなく、市自体も観音像を死者慰霊のための「本尊」であると認識していた。観音像は死者に寄り添う存在として、原爆死者を想起させ、手を合わせ祈る対象となった。だが政教分離が問われた時、仏教的な信仰のみで語られてきた観音像の位置づけは、行政的に際どいものとなり、見えない場所へ隠されることとなったのである。3.沖縄県糸満市「平和祈念公園」の《沖縄平和祈念像》沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園内でひときわ高い白い建物が平和祈念堂である。平和祈念堂には沖縄出身の美術家、山田真山が制作した《沖縄平和祈念像》〔図3〕が安置されている。18年かけて制作された像は、当初は《沖縄戦跡平和慰霊観音像》と呼ばれたが、多くの人々を巻き込み《沖縄平和慰霊像》建立運動を展開し、最終的には《沖縄平和祈念像》として完成した。広島や長崎の観音像とは異なり、この像は制作者の山田自らが発願し、建立運動を展開した像である。沖縄が大きく変容しつつある1885年、山田真山(幼名:渡とかしきまやまと― 523 ―― 523 ―嘉敷真山戸)は那覇市に誕生した。10歳ころ、沖縄で仕事をしていた福島県出身の小野という建築職人が、細工の巧みさに目を付けて、跡取りにするべく真山を本土へ連れていった。真山は、東京へ移り住むと小野の家の養子となり大工の見習いとして働いた(注13)。21歳で東京美術学校に入学し高村光雲のもとで彫刻を学んだ。東京で経験した沖縄県出身者への差別や、恩師から沖縄の名前では1位にはなれないと言われたこともあり、彫刻家、山田泰雲の養子となり、氏名を「山田真山」へ改名した(注14)。文展・帝展に、日本画と彫刻の双方で入選するようになり、明治神宮聖徳記念絵画館に奉納する壁画を描く画家にも選ばれた。壁画は《琉球藩設置》と名付けられ、1929年に奉納されてい
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