る。1940年、真山は沖縄に帰郷する。沖縄の工芸品を日本本土へ紹介したいと考え堆錦の技法を習得した。次第に戦争が激しくなり、真山も日本軍の徴用をうけ、飛行場で壕を掘る作業を行っていた。アメリカ軍上陸後、民間人捕虜となった真山は収容所に送られ、アメリカ軍の美術技官として仕事を行った。真山はアジア太平洋戦争によって2人の息子を失った。そして1957年1月、沖縄戦犠牲者の13回忌を機に、犠牲者の慰霊と平和を願って《沖縄戦跡平和慰霊観音像》を発願した。当初の計画では、宇宙一体の理念を象徴として合掌する観音像を本尊とする群像であった。真山は戦前から唱え続けていた「宇宙即我」という自身の理想を更に発展させ、差別をなくし、異なるがゆえに尊いと理解することが世界平和を生み出すと訴えた。群像表現によって洋の東西、人種の如何を越えた慈悲と寛容、和親と向上を表し、当初は観音像であったが、仏教を超えた「宇宙即我」の思想を反映するものであった。1959年頃に本尊の名称を《沖縄平和慰霊像》へ変更している。これは「観音」であるために仏教に偏ってしまうことを避け、どんな信仰をもつ者でも祈ることができるようにしたものである。さらに沖縄の日本復帰を控えた1971年は、《沖縄平和慰霊像》が仏像風であることが問題となったため、仏教的な要素を排除する改変が加えられた。まず台座を蓮華から「真理の花」と呼ぶ、大地の炎と龍を配するイメージへ変更した。また観音など菩薩像に見られる条帛や天衣をつけた半裸像から、筒袖の着物姿に変更された。そして造形の変更とともに名称も《沖縄平和慰霊像》から《沖縄平和祈念像》へ変更した(注15)。さらに像の素材もブロンズから沖縄の伝統的な漆工芸である堆錦の技法で制作することを決定した。ブロンズは湿度が高く、風に塩分が含まれる沖縄の気候に適していないという現実的な問題もあったが、戦時期に彫刻家として金属供出を見てきた山田は、《沖縄平和祈念像》が溶かされ武器になってしまわぬよう漆による巨大な像を制作することとなった(注16)。1977年1月、山田は像の完成を待たず死去した。翌年8月、《沖縄平和祈念像》の堆錦組立が完了し、10月に摩文仁の丘から500mほど離れた場所に平和祈念堂は開堂した。《沖縄平和祈念像》は18年の制作段階で、観音像の造形から「宇宙即我」による普遍的な平和の祈りと沖縄らしさを象徴する《沖縄平和祈念像》となった。アジア的な祈りの姿を表した時、それは仏像の姿に類似するものになるのは仕方ないと山田は述べている。税金が使用されたにも関わらず、《沖縄平和祈念像》に対し― 524 ―― 524 ―
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