て、地域住民からの反対意見は確認できなかった。特に観音に対する信仰は、沖縄にも本土にも共通するものであり、観音像の造形を引き継いだ像は、祈る対象として分かりやすく、多くの人々に好意的に受け入れたと考えられる。このような点は既存の信仰体系から逸脱した造形で批判をあびた長崎の《平和祈念像》とは異なる点である。おわりに1945年、広島、長崎、沖縄において原子爆弾や地上戦によって多くの命が失われた。このため広島、長崎、沖縄に共通して「十三回忌」にあたる1956~57年に観音像が発願された。個々の地域における宗教文化的な基盤は異なっているが、観音像の発願理由としては仏教的な信仰に基づく多数の死者の慰霊が求められた。三回忌や七回忌ではなく十三回忌となったのは、敗戦からある程度の時間が経ったことで、それまで生きることに精一杯だった人々が、慰霊のためのモニュメントについて意識する程度の余裕がでてきた時期だったのかもしれない。公共空間においても戦争死者慰霊が重視された。特に長崎と広島において遺族は、遺骨を供養する仏として捉えられていた。平和公園など戦争に関連する場所に観音像が設置されることは、戦争死者に対する祈りを想起させる。戦争死者に対する祈りは、平和を願うことにも繋がる。だが、戦争の実態について伝えることは観音像の造形のみでは出来ない。そのため碑文や他のモニュメントによる詳しい説明を行うことで、詳細に戦争の記憶を伝えられることが可能となった。新たなモニュメントを加え記憶の継承の場となった広島の《平和乃観音》や、美術家、山田真山の物語とともに語られる《沖縄平和祈念像》は、平和公園において戦争の記憶を伝えるモニュメントとしての役割も担っている。これに対し長崎の納骨堂では、観音像を「本尊」として仏教的な死者の慰霊を重視してきたことで、モニュメントとしての意味付けが不明確となっている。だが、《聖観世音》に対して美術的価値を評価することや、自らも被爆しながら仏像を彫り続けた地元の仏師の物語などの情報を付与することで、モニュメントとして再び認識されることもあるかもしれない。仏像が公共空間に設置されるとき、その美術的な価値も重要であった。靖国問題などの影響もあり戦後の日本において公共空間における宗教的造形物に対しては厳しい意見が出されることも多い。だが、それでも観音像が求められたのは、その造形が死者に対する祈りを想起させるものだったからである。見慣れた姿に対する愛着は、北― 525 ―― 525 ―
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