注⑴ 林淳「近代仏教と学知」末木文美士・林淳・吉永進一・大谷栄一編『ブッダの変貌─交錯す⑿ 杉野慶雲の息子、杉野正男氏、杉野敬介氏、杉野収三氏、杉野脩氏から聞き取り(2016年5月⑵ 本稿では「平和」の名称を用いた公園を包括的に「平和公園」と表記した。⑶ 水田九八二郎『ヒロシマ・ナガサキへの旅─原爆の碑と遺跡が語る』中央公論社、1993年、pp. 80-83。黒川万千代編『原爆の碑─広島のこころ』新日本出版、1982年、pp. 43-45⑷ 『中國新聞』(1956年7月31日)⑸ 養田実・定塚武敏編『高岡銅器史』高岡銅器協同組合、1988年、p. 572⑹ 可西泰三『銅炎─高岡金工のあゆみ』高岡金工誌編纂委員会、1980年、p. 84⑺ 井上章一『ノスタルジック・アイドル 二宮金次郎─モダン・イコノロジー』新宿書房、1989⑻ この観音像が量産ではないという点は、荒井が原型を担当した《二宮金次郎》の鋳造、販売元である株式会社平和合金社長、藤田益一氏よりご教示いただいた。なお《二宮金次郎》は現在も同社の主力商品である。⑼ 中島平和観音会会長、福島和夫氏から聞き取り(2014年8月6日)⑽ 北村西望『百歳のかたつむり』日本経済新聞社、1983年、p. 148-149⑾ 長崎市民生委員児童協議会編『民生委員制度創設70周年に寄せて』私家版、1988年、pp. 102-⒀ 山田真山の生涯については、崎原久『沖縄の偉人・画伯 山田眞山伝』沖縄出版、1978年及び⒁ 『琉球新報』(2006年8月6日)⒂ 山田真山の家族や沖縄協会に確認したが、《沖縄平和祈念像》という名称に変更したことに、長崎の《平和祈念像》からの影響はなかった。なお山田と北村西望は1学年違いで東京美術学校に入学しているが、交流はなかったようである。⒃ 山田泥真氏からの聞き取り(2018年6月25日)村西望による《平和祈念像》に対する地域の人々の嫌悪感からも明らかである。る近代仏教』法蔵館、2014年、p. 5年、p. 5910510日)山田真山の子、山田泥真氏からの聞き取り(2018年6月25日)を参照した。― 526 ―― 526 ―
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