その意味で大雅は、江戸時代の町絵師として、幅広い美的関心を示しつつ、多面的な表現をものにし、かなり自由な表現力を駆使することによって際立っている。従って、飯島勇氏は、「大雅蕪村について日本的南画の大成者という呼び方をやめ、もっと自由な立場に立つ日本的文人画家として遇すべきを提唱する」(注16)と主張したのである。加えて、中谷伸生氏は、「大雅の作品についてのこれまでの評価が必ずしも〈文人画〉としての評価ではなかったのではないか」と述べた(注17)。なお、「文人画の大成者」という言い方は、「文人画の様式を完全に成し遂げた画家」という意味を含む。その意味で大雅は、文人画の大成者というよりも、一定の様式の枠組みを超えた江戸時代の天才画家であったかもしれない。池大雅は、江戸時代の後に、やがて誕生することになる近代人の性格を持つ。個性的な性格を示す大雅の制作は、どのような様式にもあてはまらない特徴を示している。また、大雅の人生においては旅が大きな役割を果たしたようである。もちろん、江戸時代の画家にとっては、旅することは普通のことであって、旅をすることは、文人画家たちだけに限定すべき趣向ではない。大雅の場合、旅は生き方の一部であったといってよい。つまり大雅は、玉蘭と一緒に旅行しただけではなく、妻に何も言わずに急に旅に出たという記録もある。また、旅と宗教的訓練をよく組み合わせたとも言われる。さらに大雅は、日本各地の名所を描いたが、眼前の景色との関係については、自由に風景の解釈を行なったと思われる。いずれにせよ、文人画家の作品においては、写実的な写しよりも、山水図の背景としての知的解釈、また、士大夫の社会的背景と文学的教養との関わりが重要であろう。大雅は、中国の名所を描く時、自己の想像と中国の原本、また、実際にみることのできた日本の風景から受ける印象を作品化した。その意味で彼の山水図においては、知的な要素と教養的な背景よりも、理想的な中国のイメージ、または中国の原本に倣った南宗画的技法が注目される。大雅の作品は、多少とも董其昌に代表される文人画とは異なるが、大雅は「南画(文人画)の大成者」と呼ばれた。そこには文人画の理論における不統一と、大雅の様式全体を貫く作品解釈の欠如がある。ともかく「文人画」あるいは「南画」という概念の詳しい再検討が必要であり、日本の文人画の表現をめぐっては、明確な記述と全体を統一する解釈が求められねばならない。さらに、大雅の作品を検討する時、個々の作品解釈のみならず、遺品の全体にわたる特質の解釈を重視すべきである。大雅の研究には、細部の分析と並んで、時代と地域の文化に関わる幅広い背景を含むことで、これまで混乱している画家のイメージとその位置づけが、さらに鮮明になるのではなかろうか。― 42 ―― 42 ―
元のページ ../index.html#54