鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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㊾ トルファン高昌故城α遺址出土西ウイグル王国時代仏教塑像とその周辺研 究 者:東京藝術大学 特任研究員  森  美智代はじめに10世紀末から11世紀初頭にかけて、西域北道東部に拠っていた西ウイグル王国の支配者層は遊牧帝国時代以来信仰していたマニ教を捨てて仏教に改修し、ここに西域仏教美術は最後の隆盛期を迎えた。同じ頃、西域北道西部に拠っていたカラハン朝がイスラーム化し、西域南道随一の仏教王国として名の聞こえた于闐を長年の戦闘の果てに滅亡させている。西ウイグル王国の支配者層は、自分達こそ西域仏教最大の檀越であることを自覚していたに違いなく、この時代の造寺造仏の量と規模が前代を凌ぐことはその意気の現れであろう。トルファン・高昌故城のα遺址は、先行研究によって西暦1008年に西ウイグル王国の支配者層によって建立されたことが判明しており、国教としての西ウイグル王国仏教時代の劈頭を飾る記念碑的寺院である。他に建立年が明らかな上に実作例が残る西域寺院は皆無で、α遺址の中央基準作例としての意義は計り知れないほど大きい。しかし現在、α遺址は全く荒廃に帰している。同遺址は1902~03年にかけて、グリュンヴェーデル率いるドイツ・トルファン探検隊によって調査・発掘され、大量の壁画と出土品がベルリンに運ばれた。グリュンヴェーデルは報告書(以下、『報告書』と略称)の中で、寺院の概要、調査過程と主な作品を紹介している(注1)。その後、第二次世界大戦により一部の作品が惜しくも失われてしまったが、なお大量の作品がベルリン・アジア美術館に現存する。往時の寺観を復元するには、現存作例から得られる情報と、グリュンヴェーデルによる記述を総合して考察する必要がある。本研究は、ベルリン・アジア美術館が所蔵するα遺址出土品のうち塑像を対象とするもので、α遺址の復元的研究のささやかな一歩である。同時に、西域北道塑像の様式・技術的展開の枠組みを提示し、その中にα遺址出土品を位置づけることで、西域北道塑像研究の一試論としたい。グリュンヴェーデルによると、α遺址は少なくとも2度の大改修を経ているらしい。寺院は高昌故城東南部の高台上に位置する〔図1〕。伽藍平面はほぼ方形を呈し、その中心は、中堂Gとこれをとりまく回廊Aからなる回字形プランの礼拝空間である〔図2〕(注2)。中堂Gの床下を掘ったところ、大量の瓦に埋もれた下層の部屋が発1.α遺址の概観、塑像の出土地点と年代― 528 ―― 528 ―

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